私は階段を駆け上がりながら、なぜ自分はこんなにも走っているのだろうかという事がだんだんと疑問に思えてきた。こんなにも階段を駆け上がるのがつらいなんて思いもしなかったので私は少し立ち止まり後ろを振り返る。あの翼さんという人は追っては来ていないようだった。ほっと息をつく。何故息をついたのか分からないけれど、追いかけてこなくて良かったなあなんてぼんやりと思った。けれどもそれから間もなく、おなじみの始業ベルの音が鳴り始めた。キーンコーンカーンコーンと無情にも響くそれは、授業が今まさに始まろうとしている事を示している。ああ何てことだろう。私はそのまま次の授業はサボろうかなと少し不良な事を思って、いいやだめだと首を振る。授業は出なければならないと私の中の善い人が口を尖らせた。


 さあ教室に帰ろうかな、と善人の言葉を思いだしながら踵を返そうとすると「あ」と声をかけられて驚いて振り返る。
 どうして声をかけられたのだろう。まず最初に疑問が浮かび上がってきたのだけれど、私はその考えよりも先に振り返っていた。私も声を「あ」っと上げる。屋上へ続く階段の、その四段目当たりにあのひとが立っているのが見えた。私がさっきからずうっと探していた、あのひとだ。まさかこんなところに居るとは誰が思おうか。


 「コンビニの」
 「ちょっと待った」
 私がぱたぱたと彼に駆け寄っていくと、彼は私にしいっと人差し指を立てて言うので私は慌てて口をつぐむ。そういえばこの人は中学生だったのかという驚きが湧き上がってきて私はぱちくりと目をしばたかせた。中学生は確かバイトはしてはいけない事になっているはず。私は口をぱくぱくと金魚のように開閉しながら、出てきそうで出てこようとしない言葉を無理矢理に出そうとして失敗した。


 「授業中だろ、お前みたいな真面目くさった奴がこんなところに居てもいいのかよ」
 「え」私は先ほどチャイムが鳴っていた事を思い出す。そして声を殺して叫ぶ。「あ!」
 「あ、ってお前。まあ今更教室に戻った所で授業始まってるけどな」
 くすくす笑いながら彼は言う、そして私の頭をくしゃくしゃと撫でた。「どんくせー奴だな、ほんと」
 そんな表情の一つ一つが、コンビニ店員の彼の表情と重なる。同一人物なのになぜか別のひとのような微妙なズレを感じる。どうしてかはわからなかったけれど驚きという感情がさあっとおしよせてひいていく波のようにすうっと消えていくと同時に私のなかで一つの使命感のようになっていたわだかまりのようなものがわあっとあふれ出してきた。そうだ、お礼を言わなければいけないんだ。


 「あ、あの!」
 私は勇気を振り絞って彼に対して声をかける。同級生の男子とこうして会話するのなんて滅多にないものだから、私は妙な緊張感を覚えつつ口を開いた。

 「先日はありがとうございましたっ!」


 端的で突飛で的を得ない発言だと我ながら思うけれど、今の私にはこれが限界だった。臨界点を超えそうで、その私に掛かる負荷の重さを量るはかりがあったとしたらとっくに針がふりきれて壊れてしまうんじゃないかってくらいにはギリギリだった。きっと私にはこう、みんなには普通にあるような男の子に対する免疫というものが、全く無いのだと思う。小学校以来グループの発表とかそういう場所以外では話したことも無いのだから免疫がどうのとかそういうもの以前の問題かもしれない。けれど今の私はものすごく頑張りをしめしたのできっと神様もなんとかしてくれる、と思いたかった。
 まあ、現実がそんなに甘くはないなんていうことは、とっくの昔から分かっていたことなのだけれども。


 案の定、きょとんとしたような顔で浅黒い肌の彼はこちらを見ていた。その目は何度か瞬きを繰り返す。だめだよなあ、これじゃあ伝わらないよなあ、いみが分からないよなあ、なんて私は思って少し疎外感に近い感情を覚えて胸がきゅうっと締め付けられるような何ともいえない気持ちになる。本当は少しだけ期待したとか、そういうものはないことにしておく。


 「あー、俺は礼を言われるほど大した事はしてないつもりだぜ」
 「で、でも」私はぶんぶんっと首を振る。「助けてもらわなければ私」
 どうなってたことか。
 「まあ、いいけどよ」彼はぽりぽりと頭をかいて、ぽつりと呟いた。「、お前完全にサボりだぜ」
 「この時間は保健室にいた事にすれば、いいんです」
 とっさに考え出た答えはそれだった。彼はあっけにとられたように私を見て呆然としたけれど、次の瞬間には笑いをこらえきれずに噴きだして笑い始める。ひいひいと笑う彼の目には涙が浮かび始める。そんなに面白い事を言っただろうか。私は首をかしげて彼を見るけれど、彼はひいひいと大声をあげないように笑い転げていて今は話になりそうもない。少しばかり時間がたったあとに、彼は「ま、そんなとこだろうな」と一言。


 「よし、屋上行くぞ」
 「え、でも勝手に」入ってもいいのかどうか分からない。彼は私の言葉を待たずに言う。
 「ほら見つかったら言い訳できねーだろ」
 私が言葉に詰まっていると、彼はずんずんと屋上の方へ進んでいく。こんなところに一人で置いていかれまいとして、私はとてとてと早足で彼についていく。屋上へ続くドアをガチャリという音とともに彼が開けると、ぱあっと明るい陽光が差し込んできてまぶしさのあまり思わず目を細めた。ひらけた視界に青空の青色が飛び込んでくる。とても綺麗だと単純に思った。
 彼はぼけっと突っ立っている私を「早くしろよ」と一蹴する。私ははっと我に返って、屋上へと足を踏み入れた。運動場で体育をやっているクラスの掛け声が聞こえる。開けた青空に何の種類だろうかわからない鳥が飛んでいる。私はしばらく屋上をきょろきょろと見渡して、視線を彼に向けた。目線があって、彼がニッと笑う。
 やっぱりこの人は妙にフレンドリーな人だなあと思いながら私も笑った。この人と居ると妙に落ち着いた気持ちになれるのは、きっと彼が頼りになる人だと私がどこかで認識をしたからなのだろうな、なんて思った。

























アイデンとティティの心臓


(20100325:ソザイそざい素材 難産で非常にどうしようか迷って結果こんなことに。結果オーライ。(