翌日、昼休みに私はふらふらと三年の教室の前まで来た。お礼を言うタイミングを逃し続けて、はや5日目となっており彼の姿は運動場くらいでしか確認する事は出来なかった。しかもそれが全てに近い形で私が一方的に見ているという、何だかミーハーな女子のような行為でしかなく結果的に近づく事すら困難ではあった。ならば、どんと押しかけていってしまえばいいのではないかと、我ながら名案を考えたわけだけれども行動を前にして考えてみれば効果的なものとは考えられなかった。 はあ、とため息をつく。 「辛気臭いぞー!」 と、声が聞こえてきたと同時に後ろから肩をぽんと叩かれる。私はぎょっとして振向くと、そこには勅使河原先輩がいた。勅使河原先輩は妙に長い苗字の名前の先輩だった上に、私と同じフルートのパートなのでよく憶えている。彼女のフルートは部活一だ。名宝、至宝のような音色は観客の心をがっちりととらえて離さない。 「勅使河原先輩、こんにちは」 「どうしたの、誰かに用?」 「ええと」私は考える。名前、何だったかな。「何だか有名人っぽい人なんですが」 「あ、もしかして翼君?」 「あ」そうだ、確かその人。「そうかもしれません」 「『かも』? ずいぶん曖昧だね、まあでもちゃんが名前で反応するならもしかして翼君かも」 「確信は無いんですけれど、――人に聞いたものですし」 もそもそと語尾に向かって尻すぼみになりながら言うと、先輩はうーんと唸った。 「でも有名人なら翼君かな、かわいいしカッコいいって噂で転校してきてから相当ウワサになってるから」 「はあ」私は相槌を打ちながら、先輩を見上げる。頭一つ背が高い。「かわいい?」 「そうそう、ちゃんと同じくらいの背の高さなんだよね。目がくりくりしててふわふわで隣にテディベアがいそうな」 「え」違うかもしれない。私と同じ身長では少なくともないはず。「テディベア?」 と思うと、先輩がエスパーのように、あっと目を丸くした。 「あ、ちゃんの探してる人と違ったかな。でも私よりも身長は低いよ。女の子みたいな顔だし」 「え」いや、これは確実に違う。「女の子……ですか?」 うーんと私がもやもやとした翼さん像を構築していると、「おい、」とボーイソプラノの声が後ろから聞こえてきた。かなりの怒気を発していると見えるそれとともに、足音がずいずいと近づいてきた。「ちょっと今の言葉、まさか僕の事じゃないよね」 「げ、翼君」先輩は早々に、嫌そうな反応を見せた。「じゃあ私用があるから、失礼」 先輩は、50メートル6秒フラットのその足で逃げた。 「ちょっと! 待てよ」という制止の声など耳に入っていない様子である。私は、走っていく先輩の後姿があっという間に小さくなって廊下を曲がるのを見た。これでは追いつけそうも無い。私は、はあとため息をついた。 「ちょっと、君」 「ひっ」びっくりして変な声が出てくる。ずいっと一歩思わず後ずさる。「何でしょう」 よく見なくても整って綺麗な顔立ちだとわかる彼の顔は、それはそれは先輩が何の説明をせず逃げてしまったという怒りに歪んでいる。非常にもったいないと言っている場合ではない事は目に見えて分かった。友人め表現力を磨け、と私は友人の表現力の乏しさを少しだけ恨んだ。可愛いと表現しておけばいいものを、どうしてこうややこしい表現をするかな。 「僕の事聞いてたみたいだけど、何か用?」 「人違いでした」 「は?」ぽかん、といった表現がしっくりくるような唖然とした表情だった。「人違い? 僕と誰かの事を間違えるなんていい度胸してるね」 しかしその唖然とした表情だったのもつかの間で、彼の眉間にはぴきぴきと血管が浮き出つつある。マズイ。あの先輩が逃げると言う事を私は少し軽く見てしまったようだ。これは私も逃げなければまずい。非常にまずい。私はまさかそんなにこの人が自信過剰には見えなかったので少し面食らった。そもそも私が人の顔を認識できていない事は周知の事実というわけだが、それも私の知り合いくらいの事実でしかなかったということだろうか。恐らくこの人は自分と自分の身内以外の人はどうでもいい、むしろ周りの女の子たちにうんざりしているような人なのだろう。 マズイ人を引き寄せてしまった。 「すいませんでした! さようなら」 ここは逃げるに限る。先輩がそうしたように。 私は先輩には劣るけれどもそこそこ女子の平均値よりも早めの50メートル7秒フラットのその足で、逃げた。 「おい!」その人の右手は私の右手をつかもうとして、虚空を切る。「ちょっと待てって言ってるだろ!」 「ごめんなさい!」 私は全力で謝りながら全力で逃げた。 先輩と同じように教室の並ぶ廊下を走り抜けて、突き当りの角を曲がると階段を全力で駆け上がる。一段飛ばしで登っていると、階段の途中であんまり走ると転ぶよーと誰かに言われたけれどそんな事を言っている場合ではなかった。気をつけるよ、とにこっと走りながら返して、また一段飛ばしで登りながら私は走っていた。 |