決まって大丈夫じゃない合図を使ったところで、出会って数日ほどしか経っていない彼にどうしてそれが大丈夫じゃない合図だと分かるのだろうか。勘違いも甚だしく、鼻をちかづけて擦り寄ってくる。手にナイフさえ持っていなければ、さぞ仲睦まじい恋人の戯れにでも見えたのだろう。見えたところでどうしようもない、そんな事を考えながら、私はぼんやりと彼の薄暗い瞳を見つめていた。彼の瞳は深い深い闇のようだ。
 幽閉に近い形で長い間軟禁されていた私には、『自由』と言うものがない。今まで『自由』と言う環境下に置かれていなかった私は、少しだけ嫉妬していた。目の前の少年は、自由だった。そして何年もの間、見世物のように籠の中に取り残されていた私を、年端もそう変わらない彼は一瞬で鮮やかに救い上げてくれたのだ。そしてにこやかに、とても楽しそうに笑うのだ。それはまるで英雄のように、きらきらと。私は多分、その時の瞬間を忘れることは無い。彼が笑っている理由は、いまだ私には理解できない感情ではあるけれども恐らくは『自由』を手に入れているからなのだろうと憶測を巡らせる。



 「うーん、相変わらずさぁ。アンタって何考えてるか分かんないんだよね」



 そしてナイフの先端で鎖骨をなぞるように撫でる。そっと触れるようなその切っ先の冷ややかな感触が肌を伝うのに、もう慣れてしまった。いつ、私の番が巡ってくるのだろうかと考えるが彼は当分の間こうして私にナイフを触れるだけの、ただそれだけの日々を続けている。縄できつく縛られて動きを封じられている両腕は、使えない事もなく、そして恐らく私の力で彼を巻くことができないわけでも無く。それでも彼の傍にいるのは、私が彼を嫌いではないからに他ならない。「まぁ、そこがいいんだけど」とぽつりと彼はナイフをくるりくるりと手で弄びながら、もう片方の手で私の腹部に手を這わせながら続けた。



 「それにさぁ、ちゃんって今まで見た女の子の中で一番キレイな顔してるんだよね。殺すにはちょっと惜しいけど、この辺の肌とかさぁ、いい手触りの椅子になると思うんだよ! ほら! こんなにすべすべしてるし……! なぁ、そう思うだろ?」



 私が興味ない、と、ついっと顔をそむければ、彼は私の腹部から残念そうに首を振りながら手を離し「つれないなぁ、こんなに褒めてるのに」と膨れ面で愚痴を漏らす。冗談めかしていると見えて本気だ。殺すならいっそ殺してしまえばいいのに、こんな世の中に私は未練など無い。だから、いつでも彼に殺される準備はできているのに。「ねぇ、どうして今すぐ私を殺さないの?」



 「はぁー、全然わかってない」彼はため息をつきながらやれやれ、といったように首を横に振った。「死にたそうにしてる奴殺したって、ビガクが無いだろ? それだよ、アンタは女としちゃサイコーにCOOLだけど、殺される奴としちゃ最低も最低、超ダメダメだ。恐怖にも怯えないような奴をいたぶったって悲鳴もあげなければ、絶望も無い。なぁ、そうだろ? 全然つまんねーじゃん、そんな奴殺したって!」
 彼は私の耳元へ唇を寄せた。
 「もっと俺は、アンタの鳴き縋るような顔が見てみたいんだ。アンタが泣いて喚いて醜く俺に縋るような顔が、見たくて見たくてたまらないから、その顔を俺の前でしてくれる時まで、殺さないで遊んでやるよ」



 「あ、そう」
 ならば、彼に私は当分殺すことなどできないだろう。だって、彼に向って泣いて縋る事態が無いからである。もしも仮に、あったとしたら、それは恐らく。
 「つれない返事だなぁ、もう」ぷんすか、という効果音が似合いそうな彼は、頬を膨らませた。「これでもさぁ、結構我慢してあげてるのに」
 「どうして?」
 「だって、八つ裂きにしたいくらい可愛いじゃん」



 これが歪みきった愛情なのかもしれない。もう少しマシな台詞だったなら、普通の女の子たちは一発で落とせるのだろうに。私などに囁いたところで、何の利益すらもないだろう。(せっかく整った顔立ちをしているのに、もったいない。)そんな私の意見などに耳を傾ける様子も無く数々の場所を転々とし、歪みきった純粋な彼の探究心は、留まる事を知らず徐々に加速を続けていく。美術として殺人を形成し、殺人を美術へと結びつける。その考え方の独創性はどこから来るのだろうか。私は一般的なよくある拷問のほかに内臓を抉り出され指をすり減らされたことはあれども皮をはぎ取られたことなどは無かったものだから、少しばかり驚きを隠しきれなかった。おそらく彼こそ、現代の最前線を行く現代美術を作り出していける創造者なのかもしれない。それは、法と言う現代社会という名の道さえ踏み外していなければ、の話だけれども単純にその創造性は評価に値すると、どこかで感心していた。



 「俺、本気だけど」



 気づけば真顔でじいっと瞳を見つめられていた。そのどことなく底知れない瞳の、邪念の無い所が少しだけ好きだ。私を見ていたあの魔術師とは決定的に何かが違う瞳。目的も、用途も、使い方すらも、決定的に違う瞳。時に本当に少年のような邪気のない瞳に、少しだけ憧れてもいるから。だからきっと、私はその瞳に囚われる。私には絶対に手に入れられることのない、もう手に入れる事の出来ないそのきらめきを。



 「うん、ありがと」



 いつしか失われていた表情も感情も、いつか取り戻せるのかは分からない。でも目の前の少年と一緒にいるなら。それも不可能ではないような、そんな気がどこかするようになっていた。まだ数日しか経っていないのに、警戒心を張る必要すらもない微弱な魔力。それに気づいてはいない彼は、まだ幸福だ。



 「こんなにも愛しているのに報われないなんて、不憫だよなァ」
 「ねぇ、愛することができることってしあわせよ」
 「御嬢さん、それでは、唇を拝借……なーんつって」









 そしてぴりり、と。
 感覚がしびれる。










(20111207:ソザイ)もしかして:龍之介くんはこんなにイッちゃってるか不安ですが一番の不安は小説を読んで無い事です龍之介夢にぼくはうえている誰か…<