油のにおいが漂っていた。植物性の料理用油なんかとは比べ物にならないくらいの質のいい油のにおい。独特のシンナー臭のただようそれは、私の部屋になじむように居座っている。どれもこれもどうでもいいものだった。けだるい気持ちだけがわたしの中で渦を巻いている。乾燥を理由に途中で放り投げてしまったF10号は悲しそうにこちらを見ていた。ごめんね、と視線だけで彼、いや彼女かも知れないものに語りかければ、それは何も答えることは無くわたしの視界の隅にただ存在していた。完全に五月病だ、と気づいた時には遅く、それはわたしの内側から浸食するようにやる気も生きがいも奪っていた。要するに今のわたしは怠惰でなにもしないものと同じだった。簡単な言葉を借りるならばニートに近い。学業も怠り、仕事もせず、ぐうたらに毎日を過ごしている。  そんなわたしを見かねた教授は、わたしを部屋から引きずり出す名目として一枚のチケットを私の前にちらつかせていた。何とかゲルテナ展のチケット。わたしが好きでも嫌いでもない、現代美術と、抽象画に近いようなあまり理解のされ難いような作品を主に描いていたというピカッソやポロックのような画家。売れる事を目的として描いているのか、自己表現を極め理解する者のみを受け入れているのか。恐らく後者であろう彼に、少しだけ親近感は湧いている。それでも、画家として生活するのならば確実に前者を選ばなくてはならない事は明白。ゲルテナについて少々齧ったことのある程度の毛の1本や2本生えたようなわたしの知識では、とても彼の作品の意図を理解することなどできなかった。無論、彼の考えなどは理解できるはずもない。



 ある講義で、一度だけゲルテナについての考察の授業が合った。全く理解できないような話がいくつかぽんぽんと上がる中で、彼の技法についてはだれそれの有名な絵画からなんとかの技法の応用を繰り返していく中で独自に編み出していったものだと聞いた。画家なんてものはみんなそんなものだろうと話半分に聞いていたところで、ふとその講義をきちんとノートに取っている人を見つけた。

 何の気なしにぼんやりと聞いていた授業で、ルーズリーフを消費するのも面倒で、わたしはこっそりと手に非らに収まりそうなちいさなクロッキー帳を取り出す。何をするかなんて美大生なら知っている。ぼんやりとクロッキーを始めるのだ。つまらない授業なら、尚更。現にまわりを見れば前の生徒の頭なんかを描いている輩が何人も存在するのだから面白おかしい。わたしもその群れに紛れて、ノートを取るふりをしながら、こそこそと視界の端で真面目にノートをとる人を描き始めた。とてもきれいな姿勢だった。

 五分程度、彼を見ていた。実際にはもっと短い間だったかもしれないけれど、だいたい全身を描き終わったところだったから五分以内におこった出来事だったと思う。わたしの、ぼんやりとした意識の中で、クロッキーをさせてもらっていた方から、ぞわりと気配を感じた。気づいているのだろうか、いや、まさか。こちらに注意もむけていなかったような、彼が気づいているのかしら。わたしが前を向いた瞬間に、ふと視線を感じる。ぱっとそちらを見れば、ぱちり、と誰とも目が合わない。しかし確実にこちらを見ていたような不自然な動きを、彼は一瞬だけ行った。なぜなら先程よりもすこし襟元がずれているから。



 「ねぇ、あなた」



 その人が話しかけてきたのは、学食を食べている時だった。学内でもオシャレだと評判の構内にあるカフェテラスでわたしは優雅にティータイムを過ごしていたのだ。膝にはクロッキー帳、左手には3Bの六角鉛筆を持っていた。そして右手にはロイヤルミルクティー。机の上にはマカロンタワーが積み上がっている。もちろん、私の趣味に他ならない。彼は「ここいいかしら」と女性のような物腰の柔らかさで、さも当たり前であるかのようにそこに腰かけた。そう、わたしがクロッキーをした彼だった。話かけられているのによそ事をするというのは、わたしの礼儀に反するのでクロッキー帳に鉛筆を挟んで机の上に乗せて男の方へ向き直る。直接、真正面からこの人を見るのは初めてだった。染めているのか、地毛なのか、ラベンダーのようなふわふわとした髪の毛に少しだけ見入ってしまう。染めたにしても、よくこんなにきれいに染まるものだ。



 「なに?」



 わたしは手に持ったロイヤルミルクティーの入ったティーカップをソーサーに置いた。かちゃり、と陶器の触れ合う音がする。男の意図はつかめないものの、その片方だけちらりと見える瞳に少しだけどきりとする。わたしはその彼と視線のぶつかり合う時間をなんとか取り繕おうと、ふらふらと行き場のない右手をもう一度ロイヤルミルクティーに伸ばした。この人と、長い時間見つめ合う事は少しばかり緊張する。何を考えているのか、あまりよくわからない。



 「食べたいのなら好きに食べても大丈夫」



 マカロンの事を指して、わたしは落ち着くために一口ミルクティーを喉へ送り込んだ。そうだ、いったん落ち着かなくては。初対面の人とはいえ、礼儀を怠ってはならない。それは常識人としてでも、我が家の家訓でもある。だからこそ、守らねばならない絶対的なものなのである。律儀なもので、父親も母親もいかにも真面目で勤勉、それでいて才能に恵まれているので当たり前のようにそれをこなすのだ。わたしも見習わなくては。



 「最初見た時からとってもかわいいと思ってたのよね! これ、なんていうお菓子なの?」
 「“マカロン”」
 「へぇ、じゃあひとつ頂くわ」



 ぱくりとピンク色のそれを口に含んで、少しだけ驚いたような表情をしながらもぐもぐと口を動かす様子が、なんだか小動物に見えて笑ってしまう。わたしよりも身長のありそうな男の人であるのに、それを感じさせないような、少しだけある違和感。子供のように無邪気でいて、それでいてまるで女性のようだった。



 「おいしい!」
 「わたし一人で食べるわけじゃないから遠慮せずに食べていい」
 「ほんと! 嬉しい!」ぱん、と両手を叩いたその人は「あら、やだ忘れそうだったわ。今日は別件で来たんだけど」とようやく本題を切り出しはじめる。事の成り行きを見守るために、ぼんやりと彼の話に付き合った。



 「急に話しかけてごめんなさいね、アタシはギャリーって言うの。ギャリーでいいわ。あなた、『白い妖精』でしょう? こんなところで見ることができるなんて夢みたい…、ああ怪しい者じゃないの。でもね、あなたの噂はよく聞いてるわ。講義に来てるか来ていないか、単位がギリギリになるまで来ないのに成績も優秀で才能もある。姿を見せないのが七不思議みたいになってるのよ。出会えたらなんとかって噂が腐るほどできるくらいに。不真面目で不良で全身ピアスだらけな奇抜なファッションをしてるってのもたまに聞くんだけど、こうしてみてみるとその片鱗もないわよね、あらごめんなさい…あなたを不快にさせようってそういうんじゃないのよ」



 「ご用件は?」
 「アタシ、アンタと友達になりたいの」
 だめかしら、と首を傾げられるのでわたしもつられて首をかしげていた。「どうして?」
 「どうしてって、そりゃあ……興味があるから、かしら」
 「興味?」わたしの眉間にしわがよる。
 「そ、白い妖精さんが何を考えてるのか、ちょっと気になっちゃって」
 「わたしが?」
 「そうよ、だってミステリアスなものには誰だって興味を持つじゃない」
 「そう? わたしの瞳には貴方がミステリアスに映るわ」



 そう言うと、彼はぷっと吹き出すように笑った。左手を口に当てて、ごめんなさいね、と謝罪の言葉を漏らしながらくすくすと肩を上下したこの人の笑いかたは、不快ではない。笑いのツボは少しだけわたしとはズレているのだろう。彼(ここにきて彼女かも知れない、とおもいはじめたものの、彼の性別は女では無いので“彼”で通そうと思う。)はミステリアスだと思っていたわたしからミステリアスという言葉が出てきたことによって笑いが込み上げてきたのか、わたしの方がミステリアスだというのに何を言っているのだろうかと思って笑いが込み上げてきたのか、わたしの頭は必死に分析しているようだけれども結局のところ前者でも後者でもどちらでも彼が笑っていることに変わりは無いのだからどうでもいいか、と思考放棄した。余計なことに使うエネルギーではない。今日は少しだけ疲れていた。



 「あなたは友達よ、ギャリー。わたしそういうの、嫌いじゃないから」
 「嬉しいわ! ねぇ、あなたの名前、教えてくれるかしら」



 そのままの名前よ、とわたしはくすくすとわらった。



 「『シルキィ・ホワイト』、わたしの名前よ」















(20120517:ソザイそざい)ヤッチマッタナギャリー連載。しばしの休息を求めて。