何もない音もない夜





こんな日には少しベランダにでも出ようと思ってがらりとベランダへと続く窓を開けて外に出る。心地よい夜風がぴゅうっと頬を撫でて気持ちのいい夜だなあと思った。ふとガタガタという物音によって隣の家の人も同じようにベランダに出てきたのがなんとなく分かる。確か風祭さんという苗字の人だったはずだ。最近越してきたらしく、両親の言葉を私はふうんと聞き流していた。


「あ、こんばんは」
「今晩は」
挨拶をされたので、取り敢えず返答をする。そういえば同い年ぐらいの人だったなあ、と身長を見て思い出す。確かに平均よりも彼の身長は低いけれど私だって似たり寄ったりの身長しかなかった。見た限りでは私のほうが身長は高いと思うけれどきっと他の人から見れば五十歩百歩だ。それにそのうち私の身長が彼に抜かれる事は目に見えていたし私のほうが現段階では高い事に変わりない。ちょっとした子供っぽい意地なのかもしれない。


さんも夜風にあたりにきたんだ」彼は問う。
「うん、そう」
私は、都会で数少ない星を見上げた。彼は「そっか」と一言、言って風を受け止めていた。ひゅうひゅうと、夜風が吹いていた。心地のよい風が髪を撫でる。

「気持ちいいね」
彼は本当に気持ち良さそうに目をすうっと細めた。私も同じように目を細める。夜空を見上げれば満月だった。綺麗な、丸い月が天高く昇っている。月面には、ウサギが餅つきをしているだとか、そんな事がささやかれていたらしいが私はそんな事をしたらウサギが酸欠になってしまうと思う。明らかに酸素が無さすぎる。そんな所で餅つきをするなんてとても困難だなと時限の違うようなSFチックなことを思って私は一人クスりと笑った。昔の人も、変なことを考えたものだ、と思う。


「どうかしたんですか?」
私がいきなり笑い出したからだろう、彼が不安そうに聞いてくる。どうやら心配してくれているらしい。
「月のウサギは酸欠にならないかどうか考えてた」
「え?」
私がそう答えると、彼はきょとんとした顔つきになって聞き返してきた。どうやら私の回答は彼にとって普通ではなかったようで、私は至って普通の人の普通の反応が返ってきて少し安心して、にこりと笑う。
「ほら、月ではウサギが餅つきしてるって聞いたから。もし本当にしてたら宇宙って酸素ないし大変だと思うの」
彼は一瞬考えて、口を開いた。
「ウサギは、きっと宇宙服着てるから大丈夫ですよ!」
私は彼の返答を聞いて笑いがこみ上げてくる。「おもしろい」
そして次の瞬間にしまったと思い、声を潜める。近所迷惑だとかそんなコトは全く考えていなかった。しかし、それにしても天然なのだろうこの少年の回答には毎回毎回度肝を抜かれる。言ってしまえば、私は少し彼の反応が楽しみなのだ。私は、彼の方を見た。そして、言葉を紡ぐ。


「昔の人は夢があった。浪漫というと薄く感じるけれど現代人は持ち合わせていないなにか絶大な想像力。だから、私昔の人の発想ってなかなか好きなんだよね。独創力というのかな」
「うん」
「現代人の脳の七割近くは人生の中で使わないの。私、昔の人は現代人よりももっと優れていたと思える」
「それでさんはどう思うんですか?」
「だから私が生まれ変わるならあと百年ぐらい昔がいいと思うな」
私の考えに意表を疲れたのか、彼は目を丸くした。ようだった。
「でもさん、百年も前だったら文明が発達してませんよ!」
不便じゃないですか? と彼が言うので私はまた噴出しそうになった。つくづく面白い少年だと思う。私はクスクスと笑いながら言った。


「私はそれでも構わないんです、風祭さん」言葉を区切って、私は続ける。「私は昔に行ってみたい。確かに人の心理が百年そこそこでがらりと変わるかといえばそうでもないかもしれないけれどそれなりに現代人よりはまともだろうと思うの」


現代の人を馬鹿にしているわけではないんだよ。と私は言い終わってから付け足す。現代人にもいいところもあるからなんて私は何様のつもりなのかと怒られかねない。風祭さんは、「うーん」と頭を抱えて悩んでいた。私はそんな彼を見て微笑む。やはり彼は面白い人だ。行動が見ていて飽きないのである。


「私の見込んだ通りの人だね、風祭さんは」いい実験対象になりやすい人だろうなあ、と私は胸のうちで考える。
きっと彼はどこかしらで私のような観察眼を持つ人に捕まって観察対象にされていることだろう。
さんて不破君みたいだ」
彼はその名前を出すと苦笑した。やはり、私以外にも彼を観察するものの姿があるらしい。まあ確かにこんなに面白い反応を示すようなら誰でも観察に走りそうなものだけれど。私はそこまで考えて、やはり彼と同じように苦笑すると「『不破君』とやらも同類なんだあ」と彼に聞こえないように呟いた。


「それじゃあおやすみ」
「うん、おやすみさん」



私たちの話し声が止むと、夜は静寂を取り戻して神々しい雰囲気を纏っていた。












(20080507)(20100325加筆修正)


お題提供:Cosmos