膿んだ現実を知るくらいならば、
いっそのこと虚無に溺れるほうが





 私は山口君の背中に回した腕から力を緩めた。山口君が心配したように「大丈夫か」と問いかける。私は大丈夫だと伝える為に、こくんと頷いた。ひゅうひゅうと冷たい風が吹いてきて、私は少しだけ身震いする。もう、あたりは暗くなり始めていて私はここからどうすればいいのだろうかという不安ばかりが襲い掛かってきた。家には戻りたくない。でもきっと戻らなければまた酷い事になるのだろう。嫌な事を考えてしまったなんて、頭を振ってその事を全部追い払う。
 今私の目の前に山口君がいる。もう、それだけでいい。


 「立てるか」
 私はまた、こくんと頷く。
 それでも、ぎゅうっと手を握って私を立たせてくれた山口君の手は男の子っぽくごつごつしていて、ああ違うんだなあとぼんやりと思った。マンションの明かりが徐々に目立ち始めて、街頭にも光が灯り始めている。一体何時間くらいこうしていたのだろうか。私は迷惑ではなかっただろうか。否、迷惑だったに違いはない。にもかかわらず、山口君はこうして私を引っ張って私の前を歩いている。
 優しいんだろう、彼は。きっと誰にでも、優しいんだ。
 そう言い聞かせて、私は自らの考えを頭から振り払う。だってこれ以上考えたら私はただの自惚れだ。


 「ねぇ、山口君」
 私は山口君にかすれた声で問いかける。
 山口君はまだ手を繋いだまま、「なんだよ、」と答える。表情までは見えない。山口君が何を考えているのか私には分からなかったし、きっと私の気持ちなんて山口君は知らないんだろう。急展開についていけない気持ちとこのままずっと手を繋いでいたいという気持ちがぐるぐると頭の中で回って消えていく。ずっとこのままの距離でいられたらどれだけいいんだろうとか、この期に及んでどうしてこんな考えが浮かんできてしまうのだろうか。なんでもない、と喉まででかかった言葉を飲み込んで、伝えなければいけない言葉を探しながら必死に言葉を搾り出す。


 「迷惑だったよね、今日はごめん。でも、ありがとう。おかげでスッキリした」
 山口君は、「いいって、別に」なんてそっけなく笑う。
 よかった、伝わって。ほっと胸をなでおろすような気持ちになって、私は少しだけ肩の荷が降りた気分になった。これで迷惑とか言われた日には私は9割方、立ち直れなかったことだろうと思えば、背筋がぞわりとする。私はちょっと俯いて、繋いでいる手を見つめた。人にひっぱられて歩くのなんて久しぶりだと思う。それもこんなにあったかくて優しい手にひっぱられて歩くのなんて私の短い人生の中で、一度か二度あるかないかではないだろうか。ああ、何て幸せなんだろう。つかの間の幸せでもいいからこれに縋っていたいと思う私は、欲深い女だ。ちょっと期待して、それ以上の関係になりたいだなんて、強欲だ。最低だ。
 私が最低だ、とため息をつくタイミングと同時に、山口君がすうっと息を吸い込む。


 「それに俺、迷惑なんて思ってねーし」


 私は思わず山口君の顔を見た。正気なんだろうか。いや、現実なんだろうかと私の脳がパニックを起こす。その続きを聞いてしまえば自惚れに入るのだろうか。考えてから自分の考えの浅はかさにぞわぞわと身の毛がよだつ。もしかしたら、いや、違うかもしれないなんて。期待を持たせるような言葉を言わないで。私はなんだか居心地が悪い妙な感覚を感じながら、山口君に右手を引かれている。


 しばらく両者無言の沈黙。
 二人の足音が何歩分か聞こえてから、山口君が口を開く。


 「…俺、前からずっとのことが好きだからさ」


 山口君がぱっと私のほうを向く。真剣な表情で、私は思わずどきっとする。
 「だから、全然迷惑なんかじゃねーっていうか。どっちかっていうと、嬉しいから」






 「もし、が迷惑だって思ってなかったらでいいんだけど、俺と付き合ってくれないかな」




私は気がつけば山口君の手を離して、ぼうっと歩道に突っ立っていた。






























(20100911)