そして、さざめく波の音が聞こえる。ざあざあと寄せては引いていく波の音は心を癒すようでありながら、今の私にとってはそうでもなかった。落ち着くはずの心は落ち着かないし、CDのうたい文句となっていたヒーリング効果だってあるかどうかも怪しい。八つ当たりまじりにソファでごろりと寝返りを打った私は、手探りでプレーヤーのリモコンを手繰り寄せて、その音を止める。最近ストレスが多いのよね、と愚痴を漏らしたら貸してくれた癒し系のCDの中でもとびきり癒されないものだった。今一番聞きたくない音だったかもしれない。海岸も、浜辺も、砂も、ぜんぶぜんぶ嫌いだ。 小さいころ、じゃこじゃこした砂が、足にからみついてくるあの感じが苦手だった。今思い出すだけでも、あまり気分のいいものではない。べしょり、ねちょり、一歩踏み出すたび、汗か海水か分からない水分を含んだ細かい粒がぴったりと素肌にはりついてくる。進もうとすれば、ビーチサンダルとあしのうらの隙間で、じゃこじゃこと不快な感触が生まれる。私が出て行けと念じようが何度振り払おうが、絶対に離れないと言ったように、その隙間に堂々と居座っているのだ。小さいころは、その感触が怖くて気持ち悪くて、ぴいぴいと泣いた。その、くっついて離れない未練がましさのようなものが、少しだけ私のなかのよくないものに似ていたせいもある。以前友人に、男の人ってどうして未練がましいの、と聞いたら女に理想の母親を求めているからじゃないかしら、と言われた。その時は何となくふうん、と流して聞いていたのだけれど、今はすこしだけその気持ちがわからなくもないような気がしている。それがとってもおかしくて、私は思いだし笑いをぽろりとこぼす。それから、胸の奥が急にきゅんとちぢむような感覚になって、頭の中にちらりと薄紫色の瞳がよぎる。依存しているのも未練がましいのも、きっとぜんぶ私のほうだ。 ゆらゆらと赤く差し込んでくる日差しが、彼の訪れてくる時間が刻一刻と迫ってくるのを告げている。嫌でも嫌じゃなかろうとも会うのには変わりない。仕事だってやりたくなくても、やらなければ生きていけない。何事もそういうふうにできているので覚悟というものが必要なんだ、と前の彼氏が話してくれた。ゆっくりとソファから起き上がる。のそのそと重たくていうことを聞かない体を無理矢理動かしながら、キッチンでコーヒーをいれる。独特の香りが漂ってくるあたりで、がちゃりと扉の開く音がする。 「ただいま」 ゆるやかな足音が、静かにそして確実にこちらに近づいている。私といえばさっきまでソファでごろごろしていたものだから、髪の毛は癖がついて、あらぬ方向へ曲がっていた。ガス台のまわりは、昨日の揚げもののせいで、少し油で汚れている。じょろじょろとソーサーから零れ落ちていくコーヒーが、カップの中に溜まっていく。 足音が止まった。 「おかえり」 「うん、ただいま」 振り返ると、鍛えられた筋肉のついたしなやかな手で頭をくしゃくしゃと撫でられる。しばらく前までは、頭を撫でてくる人は違ったのに、もうその感覚を忘れてしまっている。頭を撫でてくれる人に困っていたわけではなかったけれども何となく人によって違うものだった。優しかったり、荒かったり、そんな時は決まって髪型がぐしゃぐしゃになってしまうことに不満を持った。それでも自然と悪い気はしないのは相手の好意が直接伝わってくるからなのかもしれない。それからイワンはしばらく頭を撫でていたけれど、すぐに何かに満足したように私の頭から手を離した。イワンは男の人にしては綺麗な指をしている人だと前々から思っている。けれども本人の前で口を滑らせてしまえば、もれなく落ち込んでしまう彼の姿が目に見えていたので言わないように気を使っている。アカデミー時代から、この人はそうだ。付き合いは長いから、互いの事は十分すぎるほど知っている。だから物欲しそうにコーヒーを眺めながら「僕の分は?」という彼に、私は仕方なくもう一つ分カップを用意した。 「、僕さ、会ったんだけど」 「誰に?」 こう言い淀んだ物言いをイワンがする時は、私たちにとって都合の悪いひとに会ったときのものだった。共通の知り合いなんてアカデミー以来あまりいなかったものだから、問いかけながらも私の中で、ある程度の予想はついている。 「エドワード。元気そうだったよ、も元気かって聞いてた」 「そう、」私には興味は無いけれど、と口が動きそうになる。 「、はどうなの、まだエドワードの事」 「嫌いよ。いけすかない態度も、勝手に部屋に上がりこんでくるところも。初めからずっとね、だから彼に対してそういう気はないの」 「でも、まだ彼は諦めてないみたいだけど、」 イワンが眉を寄せる。私はじょろじょろと流れ落ちるコーヒーに視線を落とした。 「しらない、」 アカデミー時代から続く、私たちの奇妙な関係は何年かを迎えて飽和を迎えている。私が一人暮らしをしながらアカデミーに通う中で、何度かエドワードはここにきている。彼氏でもないのに無断で上り込み、いつの間にか私のソファに陣取って、おかえり、と私を迎える。私はその度に誤解を招き迷惑だからと、顔を顰めながら出て行けと言うのに、彼はだだをこねて居座っていた。それを見かねたイワンが私の部屋に駆けつけてきて連れ出すまで、ずるずると。それから、自然と三人でいる時間が徐々に増えて。人気の高いエドワードはファンも多かったものだから、多くなり多かれ少なかれ彼に対しては非常に嫌な借りができている。倍にして返したい気持ちがふつふつと湧き起こるけれども、もうすでに倍にして返されているようなものだから私に何も言う事はできなかった。あの事件まで私たちは、ずっと馬鹿な悪友でいた。そう、あの『事件』だ。私はその時、彼らとは一緒にはいなかった。彼らはその時からあくまでも悪友であり、私にはきちんと同性の友達もいるからだ。呑気にクレープを食べに行っていた。それが幸運だったのかと問われれば私は首を横に振るかもしれない。しかし、今となっては禅問答に過ぎない。 突然エドワードの抜けた、私とイワンの間の穴は微妙な距離を保っていた。ふっと息をかけてしまえばすぐに崩れ去ってしまいそうな、微妙な穴。互いの事をよく知っている分に、たちが悪いのでしばらくの間私たちはその穴の前でぽかんと突っ立っているだけだった。エドワードが抜けた、というだけでこの距離が徐々に奇妙にこじれていくのが、感覚的に分かった。心としての距離はどんどん開いていくのに、結局のところ私の一番近くにはイワンがいるのだ。エドワードがいなければ知り合う事も無かった彼が、エドワードがいなくなった後も私の近くにいる。エドワードが居なくなったからといって消えてしまうわけでもないのは分かっていたけれど、もう連れ出す相手もいないというのに。いつのまにか私の生活のリズムにじわじわと浸食している。恐らくイワンの中にも。 まだ、ぽっかりと空いた穴はまだ元には戻らない。欠けてしまった三角形は安定感を失くして沈んでいく。エドワードが出所したとして、私たちの関係がぴったり同じものになる可能性は極めて少ないかもしれない。少なくとも、私がイワンに惚れかかっている時点でもはやエドワードは負けているのだ。ほんとうに、ばかげている。 くすくすと突然笑いはじめた私に、イワンが不服そうに顔を顰めた。ごめんごめん、と軽く謝って言葉を紡ぐ。 「思い出し笑いしてたの、別にイワンが変な顔だったとかそういうんじゃないのよ」 「僕そんなに変な顔してないよ」 「はいはい、整った顔立ちでございますこと」 「」整った額にしわがよる。 「ごめんごめん」 「謝ってないよ」 はいはい、と軽くかわせば唇を尖らせる。そのやりとりが懐かしくて、あのころに戻れたらどれだけいいのだろうかと、私は表面上の笑顔を作る。 「は変わらないね」 「イワンは変わったよ」あなたが変わらないと言う私も、変わってしまったよ。 イワンはヒーローをしている。アカデミーを卒業してヒーローにはなれなかった私も、今は能力を買われて警察の特殊部隊へと配属されている。市民の平和を守るという点で、その目標に対しての ぶれ は少ない。てっきり彼も特殊部隊のほうに来るのかと思っていた私の予想は大きく外れたけれど、ヒーローTVに映る彼はちゃんとヒーローをしている。 「変わってないよ、全部」そう言うとイワンは、少しだけばつが悪そうに目を伏せた。こういう所はいつも変わらない。「場所は開けておかないと」 リビングで待ってる、と。それだけ言って、彼はキッチンを後にした。 「イワンもここに住んじゃえばいいのに、」ぽつりとつぶやいた言葉はリビングまでは届くことなく、聞いていても彼はきっと気づかぬふりをするのだろう。これは彼なりの優しさなのか、それとも私の自惚れか。イワンはいつからか、私たちが埋めていた穴を掘り起こしていた。エドワードがいつでも帰ってこれるように、と。 コーヒーソーサーのはしっこに溜まった砕かれた豆が、少しだけぱりぱりと渇き始めている。波の引いた後の砂浜のように。そして私たち三人の関係のように。 細かい事が私の中でめぐりめぐって最終的にイワンに繋がってくるあたり『三人である関係』はずるずる崩れかかっている。でもそれは、穴が埋まらない限り恐らく崩れる事もない。 (20111014:素材)素敵な企画ありがとうございました! |