気づけば白い天井が私の目の前にあった。まっしろで、なんの穢れもない。消毒液のにおいが鼻を衝いて、私は起き上がろうとしたのだけれどその瞬間に腹に激痛が走った。ああ、刺されてしまった傷が開いたらしい。腹部を触れば血が紅くにじんでいた。私は腹部を抑えたまま窓の外を見る。いったい何日くらい眠っていたのだろうか。外は明るく平穏な雰囲気を醸し出している。私の心は闇の中にあった。奪われた場所は元に戻らない、私の私物と言えばこの母のロケットくらいのもの。ぱかり、と首にかけたロケットを開けば母がにこやかな天使のような笑みでほほ笑んでいた。私はいつも彼女に励まされている、励まされてばかりだった。彼はどうしているだろうか。死んだのか、無事なのか、生きているのか。私はぼんやりとした意識の中、徐々に足音がこちらに近づいてくる音を聞いた。 信じたもの、信じていなかったもの、信じられると思っていたもの、それでも信じられなかったもの、信じてくれなかったもの。分からなかった。何を信じていいのか、何が信じられて何を信じてはいけないのか。疑うことなど知らなかった私は、恐らくもうどこかへ行ってしまったのかもしれない。私が信頼したものが片っ端から消えていく。どうして、どうして奪われなければならないのだろう。私が欲をかいてもっと幸せになりたいと望んだのがいけなかったのだろうか。 きっとそうだ。私が欲をかいた事が誰かの気にでも触れてしまったのだろう。所詮こいつも人間かと、見放されてしまったのだろうか。せっかく幸せを掴んだというのに、こいつも他の人間と同じで欲望に目がくらんで周りが見えなくなったのかと。そう、私がもともと生まれてきてははいけない人間だったということ。いや、正確に言えば、…武器だったということ。父親はこのことを教えてはくれなかったし、母親は物心ついた時にはいなかった。私が武器だというのを知ったのは彼に引き取られた後だし、武器として私が超一流の槍と称されるトライデントの一族の娘として生まれていたという事も後から彼に教えてもらった事だった。三叉槍は扱いが難しいと聞く。数も少なく、生まれる子の適性の問題もある…らしい。彼はその点、優秀ではあったが精神面で少々難があった。だから私の中のささやかな狂気に触れて、そして呑まれた。 正直、怖かった。 自分のこと。そして彼が私にしたこと。彼が狂気に犯されていたといえど、彼の姿で刺され一種の裏切りのような事をされてそれでも信じられるかと普通に聞かれたところで、信じられないというのが本当のところだった。私の体には以前からも彼につけられた暴行の痕がいくつも、露出しないような部分に点々と残っている。恐ろしいことも、おぞましいことも、考えられないことも売春に近いこともされたしさせられた。けれど彼は優しかったから。…だから。 信じていた。 でも駄目だったのかもしれない。 信じてはいけなかった。 私が信じたから彼は堕ちてしまったのか。 男の人を信じてはいけないのだろうか。 分からなかった。分かる訳がなかった。 私には、分からない。 ぐるぐると頭の中を疑問符が回る。くらくら、と頭が揺れた。足音が近づいてきて、恐らく扉の前で止まった。がらりと扉が開いた。ぱしゃん、と何かを落とす音がして、その足音は何か叫びながら走り去っていく。その後しばらくして、多くなった足音がぱたぱたとこちらに近づいてきた。ぞろぞろと白衣を着た人たちが入ってくる。何事か言っている。私は早口すぎて何を言っているかわからなくて、理解が追い付かなくて首をかしげる。 「あの、何か」 「生き返ったああああああ!!!! よかったあああああああ!」 医者がどおおおんと私のほうに勢いよく近づいてきて、私の両手を取ってぶんぶんと上下に振る。医師のテンションの高さに私は首をかしげるしかなかったのだけれど、途端に医者の後ろをついてきていた看護婦達が一斉に青ざめる。「駄目です先生! 患者は絶対安静で…ってああああ! もう言ってるそばから傷口開いてるし! 失せろ腐れ医者! 私たちがどれだけ懸命に看病したと思ってるんですか!」 「もう駄目ですよ、絶対安静です! 動いちゃダメです、は、早く横になって! いやだめだ…ゆっくり急いで横になって!」 「おおお大けがだったんですから、安静ですから! 急な運動はダメですから!」 医者一人とナース三人はてんやわんやとしながら私をベッドに横にさせた。実際に横にさせたのはナースの一人なのだけれど。私は寝たまま彼らを見上げて起きてから一番気になっていた事、「彼は生きてますか」と口を開いた。医者の表情が凍りつき、ナースの動きが止まる。医者が腕を組んでパイプ椅子にドスンと座った。うーん、どこから話そうかなあと彼はもったいぶったような口調で首をかしげる。ナースがあわあわと慌てている。 「先生!」 「いいのいいの、どうせ言わなくても噂で出回っちゃうだろうし。言っちゃうけどさ、彼は生きてはいるけど今隔離されている。何故なら彼の魂が狂気に呑まれかけてるからだ。彼は君を取り込んで鬼神になりかける一歩手前までいってしまったからね、多分精神的にキてるんだよね恐らく。今は精神療養中。これからは彼と一緒にいない方がいい、寧ろ一緒にいてはダメだ。酷な選択ではあるけれどね」 「生きているんですか」 「かろうじてね。まあ僕らも彼の魂が狂気に呑まれかけているのに早く気付けなかった、彼は優秀な職人だったからそんな無理をしていることも気づかせる様子なんてなかったんだよ。だから対応が遅れてしまったというのもある。そして僕は君が一番つらいという事も分かっている」 私は医者の言葉に言葉が出ない。状況がつかみ切れていない。いや、把握はできているけれど事態の急展開についていくことが出来ていないのかもしれない。医者は一旦私の無表情な表情をうかがってにこりと笑う。 「で、せめてもの罪滅ぼしに君に合ったパートナー僕らで見つけたから取りあえずそれまでは彼と組んでくれ」 それが、イヴァンとの出会いのきっかけ。 |