がらがら、と音がする。しばらく何もなく、ねちょりねちょりとするペンキの音だけが響いていた。ねちょり、ねちょり。赤色のペンキは血のようで私がまるで血にまみれているような錯覚にとらわれる。一時的な焦りは継続的な焦燥感を生み、それから人はパニックに陥る。しかし私は落ち着かなければならなかった。ロジオン、ロジオン。彼に呼びかけても返事はなく、ただ彼はケタケタと狂人のように笑うばかり。何がそんなに楽しいのだろうかわからないけれども、彼の真っ青に染まった白い軍服は、まるで空のようだった。青空に浮かぶ白い雲。私と彼の身長差のせいか彼の顔にはペンキがあまりかかっていない。彼はその顔にかかったほんのすこしのペンキを拭う事無く、私に近づいてきた。 彼は黄緑色のペンキを、私にぶちまける。ねちょりねちょりとした感触が服越しに伝わる。重たい。湿った衣服も、ペンキの重量も重たかった。体が思うように動かない。避けられない。彼はニタリと笑う。恐ろしかったけれども恐れてはいけないと思った。けれども彼は今、とても恐ろしかった。私は殺されても仕方がないかもしれない。しかしその匂いが迫るたびに、人間としての本能で私は生きたいとあがいてしまう。あがいたところで、何もないと。いいことなどあるはずはないと分かっているのに。 一歩後ずさる。彼は何を考えているのか、共鳴をしているのにわからない。何も考えていないわけはない、彼は理論に基づいて行動する人だから、だからそんなことがあるはずないのだ。彼のボキャブラリーにあるからこそ、彼の予想外な出来事にも対応できる。それが彼のいい所であり弱点なのだと私は思う。そこまで考えたところで、そうか、それだと閃いた。 けれどもうまくいくだろうか。彼の中にもし、それがあったら。 「ロジオン…」 それでも私は彼を助けなければ、助け…なければ。 私は彼に手を差し伸べる。彼にその手が届くか届かないかと言うところで、私の意識はぷつりと彼の世界からはじき出された。 最後に儚げに笑う、彼の顔が私の頭にこびりついて離れない。 助けられなかったのか、私は。彼の事を。 助けられなかったのだろうか、彼は私の事を助けてくれたのに。 目を開ければ私の体を激痛が貫いた。思わずうめき声をあげる。深くえぐられたような傷口が多数にあり、私は相当な出血量で彼の腕に抱かれていた。まるで精神世界で彼にかけられたペンキのように。全身赤く自分の血で染まっていた。彼の手はナイフを持っていて、恐らく私の体の傷はそのナイフが凶器として使われつけられたものだろう。私はふらふらとした足取りで彼から離れる。後ろによろよろと後ずさると彼は、もはやすでに狂気に取り込まれてしまった瞳で私を見ていた。もう獲物としてしか彼は私の事を見てはいなかった。手遅れになってしまったのか。信じたくなかった。 「ロジオン…」 職人が狂気に犯されてしまう。そんな単純な事を見抜けなかった自分。とても無力だと感じることしかできなかった。私はたくさんの悪い人たちを成敗してきた、なのに一人の大事な人すら守れないなんて。彼のナイフが、腹に刺さった。刺されたところが熱くて、苦しくて、私は口から血を吐いた。死ぬのかもしれない。でももうこれで死んでも本望かもしれない。 どうしてこうなってしまったのだろう。 どこで狂ってしまったんだろう。 いや、もう既に初めから狂っていたのかもしれない。彼が私を買った日か私も彼も狂っていて、私たちをとりまいていた世界だけがいびつに歪んでいた。だから私たちは世界が普通だと感じていたんだ。そうか、そうだったのかもしれない。最初からこんな幸福な事が、あるはずはなかったのか。私が幸せになることなんて、多分来ないのだろう。だって、私はもともと生まれてきてはいけない子だったのだから。 彼はさくさくとどこからともなく取り出した軍用ナイフを投げる。私は避けきれなくて、何とか急所を外してはいるもののそのうちの何本かは体に刺さっていた。血を吐く。彼が一歩一歩近づいてくる。殺されるのだろう、それも本望かもしれない。ようやくこの現実から解放されるのだ。彼と共に、逝けるのならば。本望なのかもしれない。私の世界を変えてくれた、あなたと。 「」 これでもう僕だけのものだ。 彼が狂気に満ちた瞳で、私へとむかってくる。 (あ、死んでしまうのか) 瞬間的にそう思った、目をつぶる。もうこの世界とさようならをする。今度は、もう少し普通の家に生まれて普通の両親に囲まれて一緒にご飯を食べたい。私はそう思いながら目をつぶる。彼の足音がゆっくりとスローモーションのように聞こえる。楽しかった思い出が、走馬灯のように流れていく。ああこれが走馬灯、と 私は思う。衝撃がもうすぐに来るはずだった。来るはず。いや、来てもおかしくは無いはずなのだが、一向に私の腹に何か刺さったような感覚は無い。もはや既に私は感覚のないところまで来ているのだろうか。だとしたら、末期だ。しかし、それにしてもおかしかった。 「はぁー、よくない。非常によくないよ」 「誰だお前は」 私がロジオンの低い声に気付いて目を開ける。うっすらと開いた瞳の先には見知らぬ金髪の男が立っている。誰だろう、と私も気になって意識の遠のきそうになるのをこらえて彼の言葉に耳を傾ける。 「さっきからか弱く美しい女の子を刃物でメッタ刺しとはいただけないね、僕の美意識に反するよ」 「誰だお前はと聞いている」 「君の容姿は美しい、しかし君の心はその容姿に反して醜悪であるようだ」 「貴様、ふざけるなよ」ロジオンの額に血管がうかぶ。 「ふざけてなんてないよ、僕の常識の範囲内だ。そんなにカッカしないでくれよ君の美しい顔が台無しだ。いや、狂気に犯されている時点で、もはや美しさとは程遠いところにまで来ているのかもしれない…気の毒だが死神様の緊急要請でね。僕は君を生け捕りにしなければいけないという任務を預かってきた。彼女の救助は後々応援がくるよ」金髪の彼は、こちらを振り向いてにこりと笑う。そしてまたロジオンへと向き直る。 「まぁそれまでは僕がここを食い止めておくんだけれど…しかしどこをどうしたらこうなるんだろうね君は男として最低な野郎だよ全くこれは美しくないやり方だ。見ていて反吐が出そうになるくらいに醜悪だ下劣で低俗すぎるそれでも君は軍人なのだろうか」 「なんだと? 黙って聞いていれば戯言を…そんな挑発ごときは俺に通用はしない」 「狂気に血走ったような飢えた眼をした君に、まだそんな言葉を言える余裕が残っていたなんて正直驚いているよ。僕は君ともう少し早く出会っていればきっともっとうまくやっていただろうとおもうのだけれど。君はどう思うかな、僕としてはもう少し前に出会っていたなら親友まで至る中になっていたと思うのにねもったいない非常にもったいないことをした…タイムマシンがあれば僕はタイムマシンに乗り込んで死武専で君と親友になっていたところだよそして後ろの御嬢さんとぜひともお友達になりたいところだと思ったところだよ、まあこちらはまだ手遅れじゃないかな?」 「俺の前からとっとと失せろ」 「失せられないなあ、だって緊急要請だもの」 「鬱陶しいゴミ虫が…」 「ゴミ虫だろうが何だろうが結構だけれど僕はそれ以上に美しいからね。美しさもプラスしたゴミ虫と言う所かな」 直後、「待たせたな!」と言う声と共に私は出血量の多さで意識を手放した。 |