愛された生活をして過ごしていたと思う。自分が三叉槍という武器であるという属性も知り私は彼の武器として、パートナーとしてそれなりにうまくやっていたつもりだった。悪事を犯した魂を駆り、死神様と呼ばれる全身真っ黒で白い仮面をつけた人に時々会いに行く。しばらく前まで石畳の暗い檻に入れられていたころには考えられなかったような事だった。死神様はにこやかに対応してくださる。笑う事も増えた気がする。パートナーである彼も優しい。けれども彼は時々、本当に時々なのだけれど、私につらく当たるのだ。何故かは分からないけれど、私はそれが怖かった。男の人というのはこうも暴力に訴えるものなのかと不安になる。彼の元に来て私は三年が経とうとしていた。気づけば、私は十歳である。集めた魂は、もう既に80個だった。 青年はロジオンと言う。ドイツ人で帝国軍人の長男で15歳。彼もまた軍人になるつもりらしかったのだが、何かの拍子に職人への道を選んだようだ。何故かはわからないけれども、彼は職人に対する夢を持っているらしく詳しいことはあまり教えてはもらえない。人には一つ二つ秘密にしたいことがあるんだよ、と彼は優しく教えてくれた。私がここにきてから、彼はまず初めに私と対等な立場で付き合うという条件を出してきた。私はこの人に買われて本当に良かったと思っている。何故なら私が本で読んだ限りでは、人身売買された身の者たちは重労働を強いられるか娼婦のように扱われるか奴隷のように扱われるかのどれかだったからである。たまに本当にごく稀なケースで、こう言う事があるらしい。彼に感謝してもしきれない。毎日は充実しているし、今までのように孤独に飢えてしまう事も無ければ冷たい床で寝ることもない。温かいまなざしと、暖かなぬくもりと、ふかふかのベッド。これだけでもう私は幸せだと思える。 そういえば、彼の家には本がたくさんあった。天井まで続くような本棚が円形のホールの壁一面に広がっている。彼の父が相当な読書家らしく、世界中の本をありとあらゆる分野で収集しているらしい。私がいたところとは比べ物にならないくらいの量の本が所狭しと並べられていて私はもうこの家が大好きになった。初めの一年で二つの本棚を読み終えた私は次の一年で三つの本棚も読破することに成功した。それを知った彼の父がどうやら次々に嬉々とした様子で本を買い漁ってきてくれているらしく、私は退屈もせずに幸せな暮らしをしている。今年、もう既にその円形のホールに並ぶ八つある本棚のうち七つまで読み終えた私は一日に多い時で百冊以上の本を読むほどまでになっていた。それもそのはず。この年まですっと本しか娯楽がなかったので読む速度が速くなるのは当然だった。もちろん読んでいる間は集中しているので就寝を忘れてしまうくらい没頭していることもよくある。ご飯の時は一緒に食べるので無理やりにでも連れて行かれるのだけれど。 今の私には何もかもが恵まれていた。恵まれすぎているくらいに、恵まれていた。 彼のおかげで『話す』という機会が増え、拙いながら徐々に話せるようになってきた私は今となっては何か国かの言葉を話して理解できる程度までになっていた。ロジオンと話すときは、彼の母国語であるドイツ語を使うのだけれど私の母国語も徐々に発音の幅が広がり正しい発音ができるようになってきた。文章では読める単語が実際には発音できなかった言葉も徐々に覚えてきている。私は上手くいきすぎている日々に日に日に不安を募らせてはいたが、気にすることは無いのかもしれない。ただの杞憂であればいい。 だがしかし私は気づいてしまった。幸福すぎると人の感覚は麻痺してくるらしい。幸福になればなるたびに、もっと幸せになりたいという欲望が生まれてくるのである。人はこうして堕ちていくのか、と知った時の私の絶望は広大な海に一人あてもなく彷徨う流れ人のようなものだった。周りを見渡したところで解決策はなく、万事休す。といったところだろうか、私は頭を抱えてその日一日を無益に過ごした。惰眠をむさぼったままで終わってしまった。恐ろしかった、自分がそのような人間になってしまう事が。幸せに溺れ、怠惰な人間になってしまう事が恐ろしくて私は泣いた。なんと愚かなのだろうか。私は豪遊などしたくはないのだ、普通の生活がしたいだけなのに。多くを望みすぎるものによいことなどない。私はまさに今望みすぎた。もっと幸せになりたいという欲望に負けそうになっている。 「、君は見るたびに美しくなる」 ロジオンが今日、魂集めの帰り道で私に言った。私は急な事だったのでびくりとして立ち止まる。普段から彼はこんな甘い戯言や綺麗事をいうような人ではない。今日に限って、このタイミングで、こんなことを言うなんておかしいのではないかと不信なものを抱く。しかしここで不信感を押し出してはいけないことを長年の生活で私は心得ている。私は感情を表に出さないように平静を装い問いかける。 「どうしたの?」 ロジオンが近づいてくる。彼は私の髪に触れると、以前彼がそうしたように私の髪を手で梳いた。 「まるで魔法のようだ、」ロジオンは私に顔を近づける。「素敵だよ」 「…ロジオン?」 分からなかった。恍惚としたような、ロジオンの瞳がとてもこわい。こわいの一言では言い表せないくらいに恐ろしい。私を見ているようで、どこか遠くの何かを見ているように焦点が合わない。共鳴した時にどうして私は彼の異変に気付くことができなかっただろうか。私は一歩後ずさる。彼は一歩距離を詰める。また私が後ずさる。 「ど、どうしたの? ロジオン、どうして急におかしくなっちゃったの?」 「どうして逃げるんだい?」 「貴方が追いかけてくるから」 「君が逃げているからだろ?」 「ねぇ、質問に答えてよ」 「、俺だけのだ、誰にも渡しはしない」 そして私は気づいてしまった、やはり彼も何かがおかしかった。 それは私のせいなのかもしれない、私が、私の血が穢れているからなのかもしれない。私の母方の血の遺伝。一度父に穢れた血と呼ばれどういう理由か分からずに、恐らく国家機密並みであろうレベルの本で読んだことがある。愛される星のもとに生まれた、まるでこの世のものとは思えないほどに美しいと言われる種族。分かりやすく例えるならばエルフに近いものだが私にはいまいち実感がない。しかし父が私が三歳のころ、私を地下牢に繋ぐ時に確かにそう言っていた。 「お前は穢れた血だ。武器のくせにあの魔女のような世界に愛される女の血をひいたクソガキだ…考えるだけで身の毛がよだつわ。まあ…しかし…こいつは時期を見計らって売り飛ばせば高値になる。…それまで地下牢にでもつないでおけ!」 母の写真は一枚だけ、私のロケットに入れてある。ペンダントのようにも見えるそれは、パカリとふたを開ければ写真の中の母の微笑みがみられる仕様だ。母はかわいらしくふわりと花のような笑みを浮かべている。これは私がこの人に買われて家を出るときに父が投げ捨てるように選別としてくれたものだった。 母から受け継ぐその血は魔女のような能力にも関わらず彼女らのその力にはとうてい及ぶことはないという。人の人生を狂わせながら、その血を引き継ぐ者は男女構わず裏ルートを使い人としては高額で売買される。容姿はこの世のものと思えぬほどに美しいが、中に穢れた血を持つ。狂気を呼び寄せる血。もはや優しげな表情で私を見てくれる彼の瞳は陰も形もなく、今やそれは爛々と狂気に輝く。私を見ているのかそれとも私の中にある何かを見ているのかわからない。いや、もはやすでに私を見ていないのかもしれない。 「、俺の」ぎゅっと彼は私を抱きしめる。「俺だけのものだ、俺しか触ることは許されない」 ケラケラケラ、と螺子の外れたように笑う彼は今、狂気に飲み込まれている。彼は抱きしめる力をどんどん強くする。ああ、窒息してしまう。そう思った瞬間だった。気づけば、私は彼の精神の中に取り込まれていた。こんな事がありうるのだろうか。いや、あってはならない事だと瞬時に脳内が警報を鳴らすが、恐らくもう手遅れだと思う。彼の精神世界はくるったような色を放ち、もはやすでに。 染まっていた。 全て、染まっていた。 私はなぜ気づかなかったのか分からないくらいに真っ黒に、真っ黒に。一面が黒く塗られ、その中にショッキングピンクのペンキがぶちまけられている。まるで血のようなそれは近くで新たに彼がぶちまけた黄色のペンキとまざりあい、気味の悪いマーブル模様に変わった。その様子に見とれていれば、彼が赤いペンキを私の頭の上からかける。どろり、と気味の悪いペンキの感覚が頭から、顔に、そして首筋へとつたう。彼は満足そうに、またどこからかぺんきを出して今度は床にある大きな瞳にペンキをかけようとしている。だめだ、と本能的に何かが告げた。私は彼の持っているペンキを、彼ごと目とは逆方向へ弾き飛ばす。この目は彼と同じ色をしている、だからというわけではないけれどもこの目を汚してはいけないと私の第六感が叫んだのだ。 分からなかった。 彼をどうにかして助けたいと思った。でもここからどうやって救い出せばいいのだろう、どうすればいい。どうすればどうすればどうすれば。どうしてこうなったの。どうなっているの。落ち着け、落ち着くんだ。どうしたら彼は助かるのだろう。彼は助けられるのだろうか。助ける方法はあるのか。くだらない方法を考えていても仕方がない。でも、助けたい。方法がわからない。 彼は青いペンキを持つ。私は自分の真っ赤に染まった手を見ながら、そういえばペンキ掛けられたっけ、と思い出した。逆に彼にペンキをかけたら。 私は彼に向って走り出す。彼の持つペンキを奪い取り、彼に向って勢いよくぶちまけた。彼が青色に染まる。 青色に染まって、 …… ……………… ………………………… 何も起こらなかった。 |