「どうして私の事を気にかけてくださるんですか」


 疑問はただひとつ、それだけだった。
 彼がどうして、私のような小市民に対して声をかけてくるのか理解は出来ない。恐怖心や畏怖の心はないが、それでも疑問は残る。探究心と好奇心ほど注意するものはないが、それでも風影である彼が何の縁もない私に対して話しかけてくるというのは少し異形の光景だった。


 「迷惑か」
 「違います」
 私は少し残念そうに首をかしげた風影様に対して首を横に振った。すると彼は、少し間を置いて言う。
 「…特に、理由などない」
 「そうですか」


 私は今、丘の上にいる。
 いつもここに来ているのは、単なる趣味というか日課だ。深い理由などなく、ただここから見える夕日を見たいがために足を運んでいる。いや、正確に言えば、この夕日を絵に描いて収めようと毎日スケッチブックと持ち運び用絵の具セットと持ち運び用のイーゼルが入った鞄を片手にここまで足を運んでいるのだ。椅子に座りながらパレットを片手にイーゼルに向かってスケッチブックに絵の具を載せる。水彩の絵の具はオレンジ色の光を受けて瞬きながら、スケッチブックに染み込んでいった。水彩独特の淡い発色を崩さぬように、上から徐々に濃い色を塗りこんでいく。うまくあの色を表現するためには、何が必要なのか、まだわからない。










 しばらく前、だいたい一ヶ月ぐらい前から風影様は週に二・三回の頻度で、この丘に来るようになっていた。何故かは知らないが、気づいたときには後ろにいるのである。たまに話しかけてきてくださることもあったりして、それで気づくこともある。しかし何の意図があるかはわからない。絵が完成して私が荷物をまとめだすころにはもういないのだ。作業に没頭している私である、彼ほど巧妙に姿を現したり消したり出来る人に反応できるわけはない。
 さて、これだけ聞くと少しホラーでもあるが、それでも私は少し幸せでもある。
 この一国を預かる風影様が、なんだかよくわからないけれども私に話しかけてきてくださっているなんてまるで夢のようだからだ。嬉しくないなんていったらバチが当たる。と思っているが、あながち嘘でもないだろう。多分、彼のファン達に八つ裂きにされるはずだ。いや、さすがに殺されはしないだろうが、半殺し程度にはされるだろう。人生なんて砂の城、崩れるときにはいとも容易く崩れ落ちてしまうものだから。とまあ、要するに砂の女は恐ろしいと言うことだ。いや、どこの女も恐ろしい事に違いはないのだが。



 「今日はいつまでいらっしゃるのですか」
 私が問いかける。
 「気分次第だ」
 彼はぶっきらぼうに無感情のまま答えた。


 夕日が沈みかけてきた。
 先程からほとんど無言状態で、いつも通りのままの時間が緩やかに流れていく。オレンジ色の夕日が、徐々に彼方にある地平線へと飲み込まれていくかのように沈んでいく。私は水彩絵の具に赤色を混ぜながら夕日を塗り始める。
 淡く、淡く、薄めて。
 スケッチブックへと筆を運ぶ。
 一連の動作は休むことなく、そして一定のペースで続いていく。彼はまだ居るのだろうか、気になって後ろを振り返れば彼の姿はまだあった。


 「どうかしたのか」彼は問う。私は、「あなたが、居るかどうか気になっただけです」と正直に答える。
 彼は、にこやかに笑うと「今日は最後まで見ていく」と、一言。
 「そうですか」
 私は胸が高鳴る。にこやかに微笑まれてしまって、私はもうすでに鼓動が早い。なんて事だ、信じられない。彼が微笑んでいるという事実も、私が彼に微笑まれているという事実も、どうしようもない現実だということはこの目が実証している。信じられなくても、事実には変わりないのである。しかし、信じられないという感情が先走って頭に混乱を招き起こさせている。まるで頭の中で大地震が来て、思考回路が津波の影響によって流されて跡形もなくなってしまったような、そんな感じだ。何も考えられない。
 「ありがとうございます」と、私。
 何でお礼を言っているのかどうか、自分では考えられないくらいに私の頭は混乱していた。きっと、私の頬はあの夕日のように赤いんだろうな、と考えると余計に何か恥ずかしくなってきて絵のほうに向き直る。あと、少しで完成だ。頑張れ、私。自分で自分を励ましながら、気合を入れて絵に集中する。


 「綺麗だな」


 夕日はもうすでに半分地平線に飲み込まれてしまっている。
 赤とオレンジと山吹色と黄色それから白に桃色、最後に紫…。その他色々な暖色系の色を重ねながら、今回の絵は完成した。


 「そうですね、」私は彼に相槌を打つ。「とても美しい光景です」
 「その絵だ」
 「え?」
 私は自分の絵を見直す。確かに、今回は前回よりも夕焼けの表情は出せたと自負しているが、人から褒められるような絵ではない事は私が良く知っている。絵のコンクールで賞に入ったことなんて一度もない私の絵だ。意味のない風景、そして意味のない描写。
 そんな絵なのに、彼は。


 「良かったらオレに一枚、譲ってくれないか」


 とろけてしまいそうな柔らかな微笑とともに。


 「お気に召したなら、喜んで差し上げます」


 私はその言葉に、にこやかに答えて。
 イーゼルから、スケッチブックを取って夕日の絵をナイフで丁寧に切り取る。そしてその一枚の画用紙を、彼に差し出す。彼はそれを受け取ると、まじまじと眺めた。そんなに見られては、色々とごまかしてしまった部分がばれてしまうのではないかと思ってヒヤヒヤする。つき返されてしまったらどうしようとか、不安でいっぱいだ。
 そんな不安を取り払うかのように、彼は満足そうに「ありがとう」と言った。
 殺し文句に一言。


 「じゃあな、。また来る」


 「はい!」
 過ぎ去る姿を見送る。
 なんて人だろうか、名前まで知られていようとは。そんなことを言われてしまっては、また描きに来るしかないじゃないか。


 それはまるで、私の前を歩くあなたを追いかけるように。
 繰り返し続く毎日はまるで螺旋階段のように果てしなく。
 いつ終わりが来るのか分からないけれど、大好きだと言えるその日までその背中を追いかけていたいと思って。


 







(螺旋階段)  



貴方に追いつけるその日まで私はぐるぐるとその階段を上り続ける。  










御題提供:鴉の鉤爪





主人公は、画家の卵みたいなものです。  
2009.03.18