いいなずけ




あの人は、私の許婚。そして、私はあの人の許婚。世間一般では、こういう結婚の事を“政略結婚”と言うらしい。けれど、そんな事はあの頃の私にはどうでもいい様な事で、ただ、あの頃はあの人の傍に居られるだけで幸せだった。

ちゃん! 久しぶりだね!!」
「…えぇ。一ヶ月ぶり」
互いが互いの顔を見た瞬間に、自然と笑顔になれる。そう、彼らは許婚。将来、結婚を約束された男と女。権力者の娘と息子。
「ほら、上がってよ。せっかく来てくれたんだからさ」
「それじゃあ…お邪魔します」
少年が、玄関のドアを開ける。それはやはり、豪邸のものだけあり、とても立派だ。木製のドアに施されているその繊細な彫刻、自然な木のうねり。それだけで、そのドアがいかに高価なものか簡単に推測できる。しかし、それを見慣れている彼らは、そんな事は気にも留めず、そのドアの中に吸い込まれていった。



「あら、お嬢様!! もうおいでになったのですか! しばらく坊ちゃんの部屋でお待ちになってくださいな。今、紅茶を入れてきますんで」
「えぇ…ありがとうございます」
一歩家の中に踏み込めば、お手伝いの女性がパタパタと駆けてきて、客人である、財閥の箱入り娘をもてなす。さすが育ちのよい娘というべきだろうか、彼女はスカートの裾をちょこんと摘み、そのお手伝いの女性に向かって一礼をした。
ちゃん、行こう?」少年が手を差し伸べる。
「えぇ」その手を少女が取ると、彼らは歩き出した。




ガチャリ、と音をたてて少年が部屋のドアを開く。「ここが僕の部屋」
10畳以上はある広い部屋。机や本棚が綺麗に整理整頓されており、清潔感に溢れている。その中で、隅のほうの箱に収まりきれていないボールがあった。「……あのボールは…」
そういうものは自然と目立ってしまうわけで。そして、それが見慣れているものならば、余計にそれが際立ってしまうわけで。少女の目には、そのボールが真っ先に飛び込んできたのであった。「あぁ、あれは…」


―――ドンドンドン


言いかけた所に、タイミングよくノック音が重なった。「お坊ちゃま〜、お嬢様〜! 紅茶の準備が出来ましたよ〜!! お取込中失礼致しますッ」そして、ガチャリとドアが開き、そこから、お盆を持った先程のお手伝いの女性が現れた。彼女は、「どうぞごゆっくりして行ってくださいね」と、に向かって言いながら、紅茶の入ったカップのほかにケーキが二つ載っているお盆を置く。は、静かにこくんと頷いた。お手伝いの女性はそれを確認するとにこにことして部屋から出て行く。パタン、と音がしてドアが閉まる。トントンという彼女の足音が段々と遠くなり、完全に気配の無くなったところで、少年がようやく口を開いた。


「あれ、アメフトのボールなんだ」
と、のほうはこくんと頷いて、「えぇ、知ってる。…いとこが、使っている所を見たの」そして、不思議な形をしているから、すぐに判った。と付けたした。すると、少年のほうは、少し驚いた顔をして、次の瞬間に、瞳がキラリと光る。まるでそれは、目の前に好きなものを出された子供のように。


「へぇ、君のいとこもアメフトをやっているのか」
「えぇ。…私も、ボールなら触ったことがある」
「そうなんだ。ルールは知ってる?」
「…詳しくは無いけれど、タッチダウンで6点、フィールドゴールで3点、トライフォアポイント、キックで1点、パス・ラン、それからセーフティーで2点入る…って事ぐらいは…」
   

ペラペラと当たり前のように専門用語を口に出して喋る。そんな彼女を見て、少年のほうは目を真ん丸にして驚いた。それもその筈、自分はアメフトを始めたばかりなので用語などろくに覚えていない。覚えるとしても、父親に見つからないよう、こそこそとしか覚えられない。だから、知っている用語なんて数知れている。それなのに、目の前の彼女はすらすらとそれを言ってのけたのだ。興味が湧くのは当然の事だった。


「凄い! 他には何か知ってる?」
「…後は、……」


は、その後もアメフトのルールを少年に説明し続けた。その説明は少々端折ってはいるが、とても解りやすく丁寧で、そこら辺りに居る熱狂的なファンでさえも舌を巻くほどのものだった。…それほど、凄い記憶力を彼女は持っているのだ。




「ありがとう、ちゃん。お陰でいろいろと勉強になったよ」
「…どういたしまして」
夕焼けの、オレンジ色の光に照らされて、周りの景色が赤く染まる。豪邸独特の広い玄関前で、彼らはの迎えの車を待っていた。
「また、来てくれるよね」「うん」「また、話してくれる?」
「うん」


「僕のこと…―――    」




返事の変わりに、頬に触れた柔らかな物。それが彼女の唇だったと気づくのに、何秒かかかった。そして、そうと気づいた頃には、彼女は先程着いたばかりらしい迎えの車に乗り込む所だった。




互いの顔が赤く染まっていたのは、夕焼けのせいだったのか。
それは、きっと彼らしか知らないだろう。












(2006、夏)