ついに三日目の朝が来ました。 私は眠れなくて真っ赤に泣きはらした瞳を手で押さえながら、枕元においてある豪華絢爛とした着物を眺めました。着物は飾ってありました。私が顔を洗いに襖を開けて廊下へ出れば、お手伝いの下女として家に居候しているノリホさんと鉢合わせしました。びっくりして頬を抓りましたが痛いので彼女は本物でした。 「早く準備なさってくださいまし、玄関先で母上がお待ちです」 「わ、かりました」 彼女は冷静な口調でそう言うと私を即座に追い払いました。私は廊下をすたすたと通り急いで顔を洗って寝室として使わせてもらっている部屋へと戻りました。ノリホさんはぐいっと私の手首をひっぱり部屋へと乱暴に押し込むと着物用具一式をぱあっと畳に広げました。色鮮やかな色々な小物があたりに広がりました。彼女は手際よく襖を閉めて私の着付けを始めました。 「少し丈が合いませんが折れば大丈夫でしょう」 そんなアバウトで力強く着付けを行う彼女にぐいっと締め付けられる帯が苦しく、思わず痛いと声を上げればノリホさんは少しの辛抱ですと私に言って作業を進めました。あっという間に彼女は帯を結び終わると「終わった、さ、早く座って!」と私をどこから持ってきたのか分からない鏡台の前に座らせて化粧をし始めました。 粉っぽい化粧品にけほけほとむせると、「息、思いっきりすったら駄目やん」なんてどこかしらの方言の混ざったような口調が返ってきました。相当急いでいるようで、ノリホさんは目で追えないくらいのすばやい動きで私の化粧を進めていきました。「はよせんと間に合わへんくて怒られてしまうわ」ほんとうにノリホさんはどこの人か分かりません。「終わりやで」 あっという間にチークを塗られて口紅を塗ってもらうとさながら、造りモノのような無機質な顔になりました。鏡をぼんやりと見て感慨にふけっていると、ノリホさんは私の肩をぽんと叩いて鏡を肩に担ぎました。そして空いている手で私の腕を掴みます。 「こっちや、はようしてくんなはれ」 ノリホさんは荷物を全部いつの間にか片付けて纏め、肩に担いで襖を足でお行儀悪く開けました。私は慣れない着物にてこずりながら立ち上がると裾を持ち上げて、私の腕を引っ張りながら重い荷物を持ち颯爽と駆け抜けるノリホさんの後を転ばないように必死で追いました。あの人は何者なのでしょうか。本当に手際がよく、去り際に何も残さないような忍者のような人だと思いました。廊下を音も立てずに駆け抜けるノリホさんに、パタパタと音を立てて走るなと注意されました。そんな事を言われても私はノリホさんではないので颯爽と駆け抜ける事などできません。玄関先につく頃には、はあはあと息が上がっていました。 「情けない」 ノリホさんが立ち止まり、ため息をつきながら息一つ切らさずに言いました。腕はまだ放してはくれません。私が逃げると思っているのでしょう。 「す、すいませ、ん」 途切れ途切れに言えば、ノリホさんはまたため息をつきます。「なんやねん、全く迷惑かけるのも大概にな」 「…はい」 「ほれ、そこで待ってんで」 「あ」 ノリホさんがあごで指した先には母が仁王立ちで立ちそびえていました。私は平手打ちされると怯えて、歯を食いしばりました。ノリホさんが車に荷物を全部詰め込もうとして私もずるずると引きずってゆきます。母の形相は無表情でした。ノリホさんが私の手を離して、母の前へと私の背中を押しました。母は、何も言いませんでした。 母が、後部座席のドアを開けて私の腕を掴むと、着物が着崩れないように私を車に押し込んでドアを閉めました。ノリホさんは車のトランクに全部の荷物を載せています。母が車の前のドアを開けて、助手席に座りながら言いました。 「シートベルトは締めなさいね」 「はい」 母の第一声は拍子抜けした言葉でした。私は一瞬だけ目をしばたかせて驚くと、母はくすりと笑ったように見えました。 「今からやらねばならぬ事がたくさんあります」 「はい」 「が隠していた全部のお見合い写真についていた人物に合わねばなりません」 「はい」 「彼らは皆、家に来ますので粗相のないように振舞いなさい」 「はい」 荷物を全部詰め終わったノリホさんが私の隣に乗り込んで、私は犯罪者のように連行されました。私は名残を惜しむ間もなく、彼の家から出てきてしまいました。早朝すぎてきっとホロホロ君もピリカちゃんも起きていないのでしょう。真っ暗な外の暗闇、そして午前四時前の車の時計を眺めながら、私は遠ざかる彼の家を眺めていました。 時としてそれは擦れ違いと称するものに変わってしまう事を、誰が気づけたでしょうか。
(まわれ右)
▲ 別れの挨拶すら出来ず。(20100111) |