どうやら買い物に出ていたらしいピリカちゃんが、帰ってきた「ただいま!」と言う声で私はホロホロ君から慌ててぱっと離れました。ぎゅうっと温かかった感触がすうっとひいてゆきます。少し寂しかった気持ちもありますがそれでもなんだか気恥ずかしさが戻ってきたと言うのもあり、またもう一つの理由として挙げられるのは脳内のパソコンが復旧して思考回路が元に戻った結果として私という人間が現実に戻ってきてしまったというものでした。
 いっそ、ずっとこのままの時間が続いていたらよかったなんて思ってしまった自分が憎らしく思えるくらいに。なんと甘い考えを持っているのだろうと私は自分を戒めました。きっと明日には母が迎えに来るのです。何食わぬ顔で何食わぬ表情で私の寝室となっている部屋の襖を開け、堂々と入ってきて見合いのための豪勢な柄の着物を置き、家事手伝いをしている下女を一人置いて颯爽と去っていくのでしょう。私には何となく予想がついていました。きっと前回の繰り返しに違いないような気がするのです。


 あらぬ希望など、持ってはなりませんでした。なぜなら、裏切られた時の絶望がより大きく膨れ上がってしまうだけだからです。私は心を落ち着かせて、ホロホロ君を見ました。少しきょとんとしていました。彼はまだ中学生です。

 現実を見なさい。どうせ母上に裏切られるのです。無駄な希望観測は持たない方が無難です。


 しかし其れでも諦めようとしない自分がいました。きっと私は、なにか抜け出せないような罠にかかってしまったのです。目頭が熱くなり涙がこぼれそうになりましたがこらえました。心の葛藤は激しさを増すばかりで私にはどうしようもありません。




 「私は、」うつむきました。彼を見てしまったらもう引き下がれない気がしました。「明日には居なくなるでしょう」
 「…どうして、」
 彼の言葉を最後まで聞かずに私は言います。


 「母の権力は絶対なのです、明日の早朝おそらくここを突き止めて母は来るでしょう」
 ホロホロ君は何も言いません。
 「ここで過ごした二日間が楽しかったのは本当です、できるならずっとここにいたいくらい。でも、それが私にはきっとできない」
 私はこぶしを握り締めながら涙をこらえます。


 「母は私が勝手な行動をする事を許さない人です、絶対に自分の予定は曲げません。私がピアノの稽古をこっそり抜け出したときも、バイオリンの稽古をこっそりサボろうとした時も、友達と宿泊しようとしたときも、寄り道しようとした時も、ぜんぶぜんぶ止められてきました。だから、」
 「今回もそうだって言うのかよ」
 「そうです」
 「そうとは限らねェだろ」


 そんな事を言われてしまったら後戻りなんて出来なくなります。私はホロホロ君をぱっとみて、その瞳の真剣さに口をつぐみました。


 「の家の事はオレにはわかんねェけど、それでものことはいい奴だって分かったからよ」
 ホロホロ君は、笑って私の頭をくしゃくしゃと撫でました。「だから、そんな顔してほしくねェんだ」


 「ありがとう、ホロホロ君」


 少し元気になりました、でもあなたへの思いは断ち切れるようなものではなくなってしまいそうでした。私なんかにどうしてそんな優しい言葉をかけてくれるのか不思議で仕方ありませんでした。きっとホロホロ君は優しい人なんだろうと思いました。私の友人たちのようにとても心の広くて優しい人なのだろうと思いました。




 ピリカちゃんの足音が近くなるのが聞こえて、私はテレビへと視線を戻しました。
 私はもう後戻りは出来ないだろうと覚悟を決めて待っていました。おそらく、もう既に敵は動いているでしょう。私はセイレーンと目配せすると、とたんに悲しそうな目をした彼女に戸惑いました。私は彼女に微笑んで、心配ないと伝えました。それでもセイレーンは悲しそうでした。






時としてそれは擦れ違いと称するものに変わってしまう事を、誰が気づけたでしょうか。









(のぼりくだりの階段)






























(20100111)