私は、思えば恐かっただけなのかもしれませんでした。 優しく聡明で最も信頼できると思っていた母親の突然の豹変振りと、未知の領域である『ケッコン』という婚礼行事が恐かったのかもしれませんでした。考えてみれば、その通りです。何も聞かされず、唐突に異性と『ケッコン』しろなどと言われたところでそんな自覚も覚悟も私にはありませんから、両親は私の事をさぞかし過大評価でもしているのかもしくはただの子孫繁栄のモノ同然として見ているのか、そのどちらかの可能性しか私の頭には浮かびませんでした。 恐ろしい事でした。 一家の姓を継ぐということ、それがどれほどに恐ろしい事であるかを私は改めて知りました。それもその一家を継ぐのが、全く見ず知らずの異性というではありませんか。私は同性愛者ではありませんが異性とのかかわりは今まで、ほぼ皆無に等しいほどにありませんでした。だから、そんな私が写真で見た限りでは人の人格など分かるはずがありません。そもそも、これから何十年もずっと一緒にいなければならない人となるのに写真一枚でそんなに簡単に決めてもいいのかというのが私の疑問です。 確かに、私のようなシャーマンの家系にあたる特殊な例はお見合いでもしなければならぬかもしれないときもありますが、それにしたって私だって他の友達のように恋愛をしたいというのが正直な気持ちでした。しかしそれももう叶わないのです。私はとても悲しい気分になりました。ああせめて一度だけでもドラマのような恋をしたかったなんていう考えが浅はかだったのでしょうか。 「なに景気悪ィ顔してんだよ」 「ホロホロ君」 私はどうする事も出来ない無力感と虚無感に苛まれてぼんやりとししおどしの前でかたんかたんとそれが動くのをぼんやりと眺めていました。ししおどしは楽でいいなと思いましたが、ししおどしに感情があるのかは全く定かではありませんのでししおどしが楽なのか同じ動作ばかりしていていい加減飽き飽きしているから踊りだしたいとか思っているのかどうかは私には分かりませんでした。ししおどしは何を考えて風情の漂う情景をかもし出せるのか私は少し興味を持ちました。 「ししおどしは何を考えているのでしょう」 「はぁ? …シシオドシって、そんな急に言われてもよ」ホロホロ君は唇を尖らせて言います。そして私の隣に屈んでししおどしを並んで観察し始めました。「オレはシシオドシになった事ねェから、わかんねェな」 「ずっと同じ動作ばかりで疲れそうですが、」私は続けます。「私はししおどしのように普通に生きたいと思った時がありました」 「シシオドシの生き方ってどんなだよっ! っていうか普通なのかよ!」 「なんだかサラリーマンっぽいでしょう? ししおどしって」 ホロホロ君の返答にくすくすと笑いながら私がそう言うと、ホロホロ君はなるホロ、なんて言いながらししおどしをまじまじと観察し始めました。 「私だけかもしれませんが、この世界にいると普通に生きている人がたまに羨ましくなる時があるんです。ただ自分があの世と繋がっている事に対して臆病風に吹かれているだけなのかもしれません。ごくたまに何にも縛られずに普通に生きたいと思う時があります。でも普通の生活をしている自分よりもシャーマンとして生きている自分のほうがずっとずっと充実している気がするんです」 おかしいでしょう? と言えばホロホロ君はうーんと唸って複雑な表情になりました。 私はゆっくりとひざを伸ばして立ち上がりました。長い間ししおどしを見ていたので足にじんじんと痺れがきて、さすがに長居しすぎたかもしれないと思いました。ホロホロ君はそんな私の様子を見て、ししおどしに視線を戻しながら言いました。 「みてぇにオレはシャーマンじゃなかったオレなんて考えられねェ、普通の生活ってどんなんだか想像もつかねェ。普通の奴らが霊が見えねェってのも信じられねェ。だけど、普通に生きててもきっとオレはオレだ」 「私もきっと私です」 「ならいいんじゃねェかな」 そう言うと、ホロホロ君はいつもの人懐っこい笑みを浮かべました。 「私の戯言に付き合ってくださるなんて、ホロホロ君って意外と面白い人ですね」 私がくすくすと笑いながら言えば彼は「意外とって何だよ!」とすかさずに私に突っ込みを入れました。私はさあ、と曖昧にごまかして笑います。ホロホロ君は煮え切らない表情でむすうっとしていましたので後でちゃんと謝っておく事にしました。
(臆病の賛歌)
私は臆病、 ししおどしにも恐怖心があります。 だからこそ私に無いものを持っているししおどしが羨ましいのです。 ▲ ししおどしのカーンという音がとても好きです。(20100107) |