ぱらぱらとそれは空から落ちてくる。空が流すなみだのような、誰かが泣いているのかというような偽善ぶった使い古されたような考えと同じように、わたしの心も泣いているのだろうか。心が荒んでいくのがわかる社会の中で、一人ふらふらと歩くだけ。

 それはいつも通りのしとしとと降り続くような雨。一族から放り出されるようにして旅に出されたわたしは、世間知らずのただのお嬢さまだったから持っている傘をくるくる回しながら道なりに歩いていた。どうしようもない孤独感がわたしを襲う。そして道を歩けば好奇な視線がビシビシととんでくるのがわかった。ほんとうに厄介な視線たち。わたしはため息を一つついて、この雨雲とおなじような気持ちになった。

 浮かない顔色なのはわかっているのだけれど、わたしは汗も涙も流さないようにしなければならない。血も汗も涙も唾液も、すべてが媚薬同様な特殊な体質。こんな体質に生まれたいと願ったわけでもないけれど、一族の長の娘として当たり前のように受け継がれていく『血』だった。女の多いわたしの村では、特定の男を引き寄せるためにこういう体質へと変化したという言い伝えが残っている。面倒なことに世間的にも伝説としては有名な話で、どこかの村にそういう女たちがいるらしいと裏の世界では血眼になって探している人がいるらしい。そんな恐ろしい人たちからわたしたちが逃れられてきたのは、一族がみな強いからに他ならず、大抵の侵入者や目撃者などの情報提供者が情報を売る前にこと切れてしまう事が多いからだ。一族である者も、外部から嫁いできたものも、皆一様に村を守っている。みな家族のように仲睦まじく、生れ落ちてすぐに絶を覚えて気配を絶って暮らしている。そうでないと、生きることができないからだ。

 そんな中でも特殊なのは一族の長の娘。つまりわたしの事なのだけれど、長の娘の役割として、子孫を残さなければならないという事が第一条件として挙げられていた。長の娘の中でも、長女がその家訓を継ぐと定められている。娘は13で出家し、16の誕生日までに婚約者を引き連れて村に戻らなければならない。それがしきたりだった。妙なしきたりで、わたしがもしも戻らなかったら妹がわたしの後を継いて長の娘の役割を引き継ぐのだ。普通の娘たちは13で出家した後に各々が自由に村を出たり戻ったりしながら自給自足で暮らしている。中にはハンターになる強者もいたらしい。わたしも普通の女の子に生まれたかったと何度思ったか分からなかった。ハンターになろうなんて、これっぽちも思わないのだけれど。

 けれども、わたしは内心喜んでいた。なぜなら、この村のしきたりなんてどうでもよかった。どっちだってよかった。わたしがやらなかったところで、妹がやる。妹は母親に似た絹のような黒髪を持つ美しい容姿で、性格は堅実で従順でおしとやかで料理もできる。微笑めば一輪の花のような、まさに理想の女だった。だからわたしみたいな色素の抜けた忌み子より、よっぽど彼女の方が長の娘としてふさわしい。ずっとそう思っているし、これからもきっとそう思っている。それよりも、村を出られることにわたしは喜びを感じていた。それだけだった。

 すべてどうでもよかった。レールの引かれている人生も、そして人間より長すぎる寿命も、若さも、男も女も、どうでもよかった。ただ自由を追い求めていたわたしには、この機会は願ってもない好機だった。どうなっても、もうよかった。ただ、村を出ると言うだけで、自由を手に入れたつもりになっていた。それだけでまだ何もわかっていないくせに、わかりきったようなふりをしている若者にすぎないのだ。わたしは、ほんとうに愚かだ。それを知っていながら、正すことができないのだから、人間はよけいにたちが悪いのかもしれない。

 ふいに目の前に立ち止まる男がいた。よくあることに、わたしはその男を避けて通り過ぎようとしたのだけれど、案の定それはうまくいかなかった。彼はとてもつよくて、わたしには太刀打ちできないくらいの実力があるのだと身を持って体感して、ぞわりとした嫌なふるえが走った。雨のしずくがあたったわけでもないのに、背筋が凍るように冷たい。ぞわりと全身の毛が立つような感覚と、筋肉に走る緊張感は、この男の力をよく物語っていた。焦燥感と不安が、ぐるぐると渦を巻いてとんでもなく自分がいま一人だということを感じる。

「なぁ」男が口を開いた。「一人なのか?」
 危険信号がぐわんぐわんと、頭の中で鳴っている。こんな男についていってはいけない、と。それでもわたしの好奇心はこの男に向いていた。そして同時に敵わないからこそ、興味が沸く。物珍しさが6割、強さが3割、残り1割はこの瞳。瞳で人を殺すことも容易いのではないか、と思わせるような、何かを背負ったような強い瞳。ぎらりとするそれに恐怖を覚えながら、わたしはある種の運命的なものを感じていたのかもしれない。

 ああ、だめだな。と諦めた瞬間に、男はわたしの手を自らの方へと引き寄せていた。男は傘も差さずに立っていたせいか、全体的にしっとりとした佇まいをしている。頭に巻いた布が重量を持ち、少しずつまばらに色を変えていた。男の手入れの行き届いていない髪からちらりと覗く獣のような瞳に、まるで草食獣のように捕えられそうになる。こんな人に、わたしは初めて出会った。おもわず目を見開いて幾度となく瞬く。そんな一瞬のやり取りさえも長く感じるような、その瞬間に男がにやりとした笑みを浮かべた。こんなひとは初めて見た。いたって普通の『ナンパ』である行為にもかかわらず、人によってこんなにも異なるものなのだろうか。わたしの直感が、血が、この男はなにかを持った男だと疼いているのが分かる。また、ぞわりと鳥肌が立った。

「お前。名前はなんて言うんだ」

 男がわたしの気にあてられているのは確実だった。強ければ強いほどに、わたしの前ではよわくなる。だからこそ、よわい所につけ込んでわたしたちは生き延びてきたのだ。生きるためには知恵が必要だった。何事にも、狡猾さやずうずうしさは人間として生きていくうえである程度重要な事だった。わたしに出会ってしまった彼はかわいそうな不幸な人間ではあるけれども、わたしの一族にとってはおそらく救世主にも成りうる人材であることに間違いない。だからと言ってどうこうするつもりはわたしには無かった。今の現状からして、危険なのはわたしの身だ。結局のところ、自分が一番かわいいのだ。ただの男ならさらりと振り払う事は簡単かもしれない。でもわたしが出会った中で、おそらく一・二を争うほどの強さの男を、うまく巻くことができるだろうか。

 わたしが警戒心を解いていないのがわかっているらしい男は、「つれねーなぁ」と一言ぼやく。この人はいったい何者なのだろうか。一瞬だけふっと気が緩んだ瞬間に、男がわたしの右手首を掴んで引っ張った。思わず間のぬけたような声が出て、予想外の衝撃に目をつぶる。ぱちっと目を開けばそこに男の顔がおおきく映し出されて、虚を突かれたわたしはぱちくりと瞬きを繰り返した。やっぱり強い男だった。一瞬だけ思考することに気を取られていた自分に心の中で叱咤する。

「まー、こんなやつを放っとくわけにもいかねぇしなぁ」
「……」
「お嬢ちゃん、家はどこだ?」
 抵抗しようともぴくりとも動かなさそうな男に、わたしは仕方なく一言返した。
「……出てきた」
 こんな年で家出かよ、とわいわい騒ぐ男にわたしはかぶりを振った。「しきたりなの、家出じゃない」
 警察組織のようなものにお世話になるつもりはさらさらなかった。村に連れ戻されたところで、婿を連れていなければその場で殺されるしかない。長の娘はわたし一人ではないからだ。娘は順々に村の外へ出ていかなければならない。村の中にいる男は、代々長にならなければならない。

「しきたり……、しきたりねぇ」しきたりと聞いた男が急に眉間にしわをよせて苦虫をかみつぶしたような表情に変わる。「じゃあ今日は宿無しってことだな」
 じっと黙っているわたしの、その態度はあきらかに彼の問いに対する肯定だった。じっとりとした視線を投げかけているのは、まだ彼の事が半信半疑だからである。少しいい人そうではあるけれども、そういう人に限って怪しいとはよく聞く。でもこんな身なりで見るからに怪しいのだから、もしかしたら怪しくないのではないのだろうか。……だんだんよくわからなくなってきた。

「ほら、別にとって食ったりしねぇからよ! とりあえず今日は俺の所に泊まってけ」わしゃわしゃとわたしの髪の毛を手でぐしゃぐしゃにかきまわせば、ニカッっと効果音の付きそうな人懐っこい笑顔を浮かべた。わたしの母親が生きていたら、この男についていけと言われるのだろうか。もしかしたら、ついていくなと、言われただろうか。



(20120412|×|私の上にはいつも雨が降っていた)