天才という呼称を聞いてはじめから嫌そうな顔をしていたのは何となくは感じてはいた。慣れている私はそんなことは気にならない。常に嫉妬と羨望と期待と裏切りの中に身を置いていた私にとって、信じられるものがあまりに少なかった。うわべだけの媚びるような何もないような社会の付き合いも、そして理不尽な罵詈雑言も、大人になるにつれて失うものの大きさに気づいたときには、私は既に全てを失っていた。気づいたときには、もう遅すぎたのだ。戻れないところまで、私の精神は崩壊していた。
 石丸君は妬む事も恨む事も口には出さなかった。ただ、その根底にうずまくような感情は私の目にしてきたそれと少しだけ似ている。


 「私に何か言いたいことでもあるのか?」視線の先にある瞳孔のその僅かな動揺に、私はため息をついて眉を寄せた。
 「そういうのは慣れているから、はっきり言えばいい。私は黙って受け止めるよ」
 「君…すまない、これは僕の問題なんだッ! 君に不快な思いをさせるつもりはなかった…君とあの人物は別物だ。そうだと分かっていても、僕は天才とは相容れない存在であることに間違いはない! …君には絶対に負けないからなッ!」
 「負けないもなにも、君の方が既に勝っているじゃないか。別に私は君と争いを起こすつもりもないし風紀の乱れは君自信が一番隙ではないのだろう? 恐らく私と同じ程度にはね」
 論点がわからないが、何かしら彼の関係上都合の悪いことがあるのだろう。真面目な彼が珍しいな、と私は首をかしげる。テストの点数だけで見れば石丸君の方が勝る。なぜなら私は国語が大の苦手だからである。主人公の気持ちなど知ったことではなかった。叙述されているものから推測で物事を判断することは私にはできない。なぜそれが間違っているのか、全く分からないのは私が通常の環境で育っていないせいなのだろうか。人の気持ちの分からないのは、とても辛いことだ。


 「な…ッ! いきなり何を言っているッ! ・・・・・・そうだな、まあいかに僕が気にくわないことがあるとはいえそれは個人の理由だ。クラスメイトとしてこの僕と同じクラスになったからには、いかなる理由があろうとも共同作業をする機会も出てくるだろう。そうなれば君との友好も築いていかなくてはならない。君に話すのも悪くは無いのかもしれないが、こんな事をいきなり話すのは君に対してあまりに不躾ではないだろうか…」
 「無理して話すことなら話さなくてもいいよ。そこまで親身にしてもらうような義理はないからね。聞いたのは私だけど話したくなったら言ってくれ」
 「くッ…いや、このままでは駄目なんだッ…、いかに僕が辛かろうとこのままではクラスメイトの君との間にぎすぎすとした亀裂を生んでしまう。このまま話さないのも、ひとつの方法だ。…これも僕自身の保身的な意味ではいいかもしれない。だがしかし、この話は天才の君だから聞いておいて欲しいッ! クラスメイトとして君にはまっとうな人生を送って欲しいと思っている。だから、この機会に腹を割って話そうではないかッ! …しかしここで大声で話すことでもないしな…場所を変えようか」
 「わかった」

 ぽてぽてと石丸君について歩く。人気の少ない廊下の踊り場で、彼は少しうつむいて呟くように言った。思わず目を見開いたけれども、私もその意見には賛成である。その一言目の言葉を聞いた瞬間に私は驚きはしたが、自然と嫌だとは感じなかった。ああ、彼は私といっしょなのだ。かわいそうなくらいに。彼の独白を聞きながら、いかに彼が私とおなじようなものなのかを知る。まるで鏡のようだった。見た目は違えども写し鏡にうつるものは、恐らく。


 「私も嫌いだよ」気づけば笑いながらそんな言葉を口ずさむように口走っていた。「そもそも私は万物を納められる万能器なんかじゃないからね」
 「き、君は何を言っているんだッ…!? 君は、超高校級の天才と呼ばれて来たんだろう? …挫折も知らず、苦労も知らず、努力も知らずにこんなところまで楽に入学してきた。聞けばアメリカの大学にも行っている…怠惰で堕落して風紀も乱す…そんな君が…どうして『天才』じゃないと言い切れるんだッ! ……君は僕の祖父と同じじゃあないかッ! 天才と言うだけで何の苦労もせずに成功している君のような人間がいるだけで僕は…」
 思わず胸ぐらを捕まれて少し驚いたが、石丸君も同時に驚いたようでぱっと掴んでいたブラウスを離した。「済まない…女性相手だというのに、言い過ぎてしまった…」


 心底落ち込んだような態度の石丸君に、別にかまわないよと前置きをして髪をもしゃもしゃと掻きながら先ほどの弁論における私の回答を述べる。
 「私はただ君の意見に賛同したに過ぎないよ。そもそも、私は天才でもなんでもない。ただあるべき事を、あるべきようにこなしただけにすぎないのだからね。これはここの教員達にも伝えたが思うように伝わらなかったようだ。そもそも私の件は『天才』というより頭の回転の速い異常記憶のほうが言語表現としては近いんだけど。ただ人よりも恵まれた環境に生まれ、恵まれた書物を読み、恵まれた人物に出会い、それに加えて人よりも少しだけ成長のスピードが早いだけにすぎない。有名にならざるをえなかったのはマスメディアが大仰に家柄だけが取り柄の日本人を取り上げただけだし、そもそも研究を進めていたのは私じゃないんだよ? 優秀な研究者達が研究していたものに対して私は少しだけ知恵を貸したに過ぎないのにまるで横からかすめ取ったように彼らの研究を発表したようになってしまったんだ。私が知恵を貸したのはほんの一部なのに。研究として大成したのは彼らであって、私じゃない。私は単に記憶力に優れているだけだからね」
 「……それが天才じゃないのかッ? 才能に恵まれ、環境に恵まれる」石丸君はギリ、と奥歯をかみしめて苦虫を噛んだような表情になる。まるで悪いのは私みたいだ。でも彼は決定的な間違いがある。なぜならば私はただの怠惰ではないからだ。「天才じゃないとして、そんな風にして自分を貶めるのがどれほど僕に対する侮辱か知っているか君」
 「少なくとも私は、私なりの努力は怠らなかった。過度の親の期待に応え、どんどんと高まる周囲の期待に応えるべく今までの人生の中で私のやれることはなんでもやった。そうだね、それこそ君の知らないような事も。……嫌な事も、たくさんあったよ。でもそれも『』として生まれた私の定めだ。ただもうその時には嫌だと言う感情は無かった、ただ当たり前の事を当たり前のようにこなす。それだけだった。君の苦労は君自身ではないから私には分からないが、君ほどではないにしても私も血のにじむような努力はしてきたさ。不幸自慢をするつもりはないが、石丸君の言う怠惰なだけの口先だけの天才連中とは訳が違うよ。それでも同じだというのならば、私は君も同列に並べる」
 しばらくの沈黙の後に、ぐっと言葉に詰まりながら石丸君が眉をしかめた。


 「しかし君は怠惰じゃないかッ! 天才だから授業など受ける価値はないというのか? そんな理屈が、まかり通るとでも思っているのか?」
 「ねぇ石丸君。私もしばらく前まで、君のような考えを持っていた。怠惰なものなど生きる価値も無いと。でも事実違った、私の尊敬する人物は成功しながらも怠惰な時間も必要だと言った。怠惰から生まれる発見もあると、そう言ったんだ。確かに怠惰は、まあ君のように真面目な人間からしてみたら憎むべき空くかもしれないが、現に私もそう思っていたが、時に人間というものは自由な時間を欲するものらしい。新たな考えは自由な発想から生まれるんだ。そう私の尊敬する人は言っていたよ。私の知る限りでは、彼がノーベル賞に一番近い人物だった」
 そして、それと同じように天才でありながらも努力をし続ける人だった。それでも一般人(ここでは多くの意見を尊重する大衆のことを指す)は、私から見れば彼の筋の通る言動、行動、難解な語彙に対して恐怖を抱き恐れおののき変人奇人だと呼んだ。嘆かわしかった。それで私は彼に尋ねたが彼は笑ってはぐらかした。目の前にあるそんなものたちはどうでもいいと。一般人など100年も200年も先にしか僕の言うことは分からない。僕は100年先、200年先の事を解き明かしているのだと。


 「ふむ。だが、いくら君が努力を怠っていなかったところで授業には出たまえッ! 君が来ないことはしばしば見られる事だが、僕としてはそれは放っておけない。それも移動教室の時ばかり出席率が極端に低い。君、前から聞くべきだと思っていたのだが君はどこで油を売っているのだ! 希望ヶ峰の学生たるもの授業に出るのがつとめだと思わないか? …いくら怠惰ごっこが怠惰ごっこだとしてもそれだけは言い逃れできまい! 自由な発想も授業に出なければ役に立たないだろう!」
 「……それは……その、」なんだろう、教室まで辿り着けないのは正直に話すべきだろうか。私は否定しかけて行き場のない手を空中にさまよわせながら視線を外す。それは自然の道理として決まっているのだ、仕方ないことなのだ。そう言ったところで彼は納得などしないだろう。私が言いよどむのをいいことに、彼は勝ち誇ったように笑った。

 「答えられないならば君は所詮僕の知る『天才』なんだなッ! だから僕は君の事をライバルだと堂々とここに公言するッ!」
 「……ええとね。妥協して一般の人よりも頭のいいことも君のライバルだということも認めよう。でもね石丸君、天性の才能を持って生まれた天才達と私が同じと言い切るのは間違っているし……その、」
 「……どうしたんだ君…急に顔が赤くなってきたようだが熱でも…」
 そんなに熱くはないようだな、と私の額に手を当てる石丸君は恐らく私と同等くらいに空気と人の気持ちが読めないだろう。えっと、と言いよどみながら私は石丸君から下の方に目線をはずす。


 「そう言う訳じゃないの、ただ物事は常に順序よくすすむようなものじゃないんだよね。いかに私が異常記憶だとはいえ駄目なものは駄目なことだっていくつかある。場所を記憶したとして、コンパスが狂っていればたどり着くものもたどり着けないのと同じ事だ。たどり着くまでの道順が違えど答えが同じになるような数式と、進む方向が異なれば全く異なる場所にたどり着いてしまう地図とでは話が違う。つ、つまりは、まあ、そう言うことなんだけど」
 「え、ええとだな…つまりどういう事か僕にはさっぱりわからないんだが、要点を噛み砕いて言ってくれないだろうか…?」
 「つまり、その……は、恥ずかしいはなしだけど……きょ、教室までたどり着けないのだよ」
 「ま、まさか…この狭い学園で君は教室の位置も覚えていないとでも言うのかッ!? 全て覚えていられるような記憶力があるというのにか!? 戯れ言も大概にしたまえッ!」

 「ちっ、ちがうの! 隅々まで地図は覚えてるんだけど目的地に行こうとしても気づいたら違うところにいるし、地図も進む方向も間違ってないのに開けたら違う人たちが座ってるしもうわかんなくて疲れちゃって眠くなっちゃうんだよね…この間も苗木君と購買部に行ったのに苗木君はいなくなっちゃうし私だけ違う所にいたの、きっと私の周りに特殊な磁場が発生して地図を狂わせているとしか思えないよ…」
 「…ちょ、ちょっと待ってくれ君。……どういう事だ?」石丸君は少し考えた様子だったが、しばらくして「わかったぞ!」という叫び声が人のいない廊下に奇妙に響く。「そうか! つまり君は極度の方向音痴だったということだな? だから辿り着けなかったんだろうッ! いや、君が真面目に努力をする秀才だったというのなら、そうに違いないッ!」
 「もう! ほ、方向音痴じゃないからね! 馬鹿にしないでっ!」
 「す、済まない!」石丸君は、勢いよくばっと顔を上げて反論した私に一瞬だけ怯んだ。「ならば、僕と共に教室まで行けば万事解決と言うことになるんじゃないだろうか? 君が、その、良ければと言う話だが。……どうやら君は思ったほど僕の思う天才とは違うらしい。君、君を誤解していて、すまなかった」
 「……石丸君、それ本当かい?」
 石丸君がつれてってくれるっていうのは少し考えていたけれども
 「ぼ、僕は嘘はつかない! 言ったからには責任を持って君を教室まで送り届けることを誓おうではないかッ!」


 「…石丸君!」
 私は猛烈に感動していた。こんなに胸が熱くなるのはいつぶりだろうか。気づけば少し視界もかすんでいる。
 「ありがとっ!」


 私はみっともないであろう顔を見られないように、ぎゅっと石丸君に抱きついた。わ、とかやめたまえとか聞こえる気がするがそんな事はこの際かまわないのだ。(石丸君ってやっぱりいい人なんだ!)きゃっきゃと子供のようにはしゃぐ私を、石丸君が引きはがすまで、そのままじゃれ合っていた。
 こうして私と石丸君の長い長い誤解を通した冷戦は、お互いの事を少し理解したところで少しだけ幕を閉じることとなる。















()(20120907:お題ソザイそざい素材