確か、あれは初日の話だった。
 私が机の上でうとうととしていると、隣で「僕という者が授業中に机で居眠りなど…!」なんて言葉が聞こえて、それを目覚まし代わりに意識を覚醒させる。セットされていたはずの髪の毛は、うつぶせに机に突っ伏していたせいか、前髪がぼさぼさだ。アホのように前髪だけがぴーんと立っているようで、私の視界は少しばかり晴れやかに、恐らく外見は二割増しでアホのように見えているはずだ。まあいい。別に誰に咎められるわけでもないし、視界も良好である。私は前髪をくるくるといじりながらふわあ、とあくびをする。ごしごしと口のまわりを着ている服の袖で擦れば、少しばかりよだれが垂れていたことに気付く。ついでに目もこすりながら、状況の確認のために寝ぼけまなこで周りを見渡す。この教室には私と隣に座る石丸君以外に特に誰がいるわけでもなく、窓には鉄板、天井からは監視カメラ、壁には液晶テレビのようなモニターが設置されており奇怪な壁紙が張られていた。


 (なんだこの壁紙は、奇妙な柄だな)
 私がそれをみて顔を顰めれば、隣の彼もそう思ったのか「信じられない…」と呟いた。そうだろう、この壁紙を見てセンスがいいと思うのは、すこし頭のネジが緩んでいる証拠だ。センスが悪いと感じるあたりで、まだ私の脳は正常に動いているといっても過言ではない。私は彼に挨拶をすることにした。


 「やぁ、石丸君」隣の席に座る石丸君――彼とは初対面のはずなのになぜ名前を知っているんだか忘れてしまった――に軽く右手を挙げながら声をかける。
 (ん? そうか、石丸君は私の世話係だっただろうか)
 私は頭の中で考えるが、彼に対する強烈な印象を中身だけごっそり盗み取られたように思い出せない。執事か何かならば、私はちゃんと全員覚えていたはずなのだけれど。私の世話を彼がしてくれていたという事は確かなはず。教室で私の制服のボタンをいつも気苦労しながら直してくれていたとか、廊下でリボンをきちんと結びなおしてくれていたとか、空き時間に髪の毛をきちんとブラシで梳いてくれたとか。果たしていつの思い出なのか不明瞭なそれは、頭蓋骨の内側からチクリチクリと執拗に何かで刺すような刺激で妨害された。う、とまたしても顔を顰めた私に石丸君もつられて表情をこわばらせた。

 「だ、大丈夫か?」
 「き…君とは初対面のはずだが…なぜ」

 石丸君はやはり私の世話をしてくれていたのだが、しかし、そう仮定するならばそれはおかしいことになる。石丸君は何か言いたそうな顔をしていたような気もするが、まあいい。
 (うに?)
 と、ここで疑問だ。わたしの偉大なる計算能力が誤算を表示しているというのだろうか。それはありえないことだ。しかしこんなところで私は居眠りをした記憶はない。記憶のない眠りはよくよくある事だけれど、もしや誘拐されたのかと思えば少し辻褄が合う。頭をさりげなく触れば、殴られたようなこぶが頭の後ろにあった。誘拐の線は濃くなった。
 (…殴られたのだろうか、だとしたら誰に? ああ、誘拐だとすれば犯人だろうか……)
 考えても今のところの状況では誰に殴られたかは分からない。まあいい。私を狙う輩なんて、特定するのも難しいのだから。今、現段階で分かることはこのくらいだ。しかし、だとしてもなぜ覚えているのか。ああ、そうだそうだ。と、一人納得する。石丸君は私を見ると、心外なことにまるで変なものを見るかのような目でぱちくりと瞬きをした。まるでなぜ名前を知っているのかと言わんばかりの顔だ。秀才というのはとても分かりやすくて助かる。予想外の出来事が起こった時の反応を見れば何を考えているか一発で分かるくらいに分かりやすい。



 「おや? 石丸君の記憶力もとうとうそこまで落ちてしまったのか?」
 若年性のアルツハイマーは恐ろしいから気を付けるといいだろう、はっはっは。と、至って淡泊に表情を動かすことなく私は笑う。
 「は…!…もしや初対面ではない…のか…! 僕としたことが失礼した。ところで君の名前はなんだっただろうか…聞けば思い出すかもしれない」
 私の名前を思い出せないという痴態を晒すなんて石丸君にしては珍しい、と思いながら私は名乗る。「私は八雲
 「八雲…どこかで聞いたことのある名字だな…」
 見ていても見るからに様子がおかしい。さては石丸君の笑えない冗談なのだろうか。もし仮にこれからクラスメイトになる人だとして、顔と名前くらい一致させているものと思っていたのに。冗談には冗談で答える、これは八雲家の礼儀である。もし仮に消された記憶があろうが寝て起きれば元通りな私だから、きっと次の日になればこのもやもやしたものも消えるはずだ。だからこそ黒幕がいるならば彼らにとって私が邪魔な存在であることは確実だ。もう一度、ポカンと頭を殴られればおしまいなのだ。何か手がかりでもあれば、きっと何とかしてくれるはずだ。しかし今手元にあるのは枕くらいのもので、この中に都合よく指紋採取キットなんて入っているはずもなかった。もちろん、犯人も分からない。私は冗談を続ける。


 「…石丸君、…私とあんなこともこんなこともしたりされたりした仲だというのに」
 「…な! 女性がなんて事を言うんだ八雲くん…!! ぼ、僕はそういう、ふ、不健全な行為など…」
 「『不純異性交遊など一度もしていない』? したことがない? 私は遊びだったの?」
 「その通りだ、学生の本分は勉強だ! …いや、今の肯定は君が遊びだったことに対してはなく、…うむ…だが、なぜ君が僕の事を知っているんだ!!」
 「私が石丸君を好きだから」
 私が席から立ち上がり、石丸君の肩に両手を置いてぐいっと近くまで顔を寄せれば彼は面白いくらいに体をのけぞらせる。
 「なッ!! あ、会って間もない人間のことを…す、好きになるなど…!」
 間もなくないんだって、と言ったところで彼は分かってくれないらしいことが目に見えている。これでは押し問答だ。私は椅子に再び、ぽすんと腰かける。そうだ、きっと彼は私の使用人であった記憶を失くしているに違いない。私も不条理に苦しめられているのだから、彼もおそらくそうなのだろう。私はため息をつきながら堂々と続ける。
 「君は八雲の人間に好意を寄せられている立場なのだよ? 断る理由は無いに等しい。私の言葉を受け入れるだけで君には地位も名誉も立場も役職も用意されている。まあ、君が大好きな言葉に言い換えるなら『私に気に入られたという君自身の努力』による功績だとでも思うといい」はっはっは、と私は感情を変えるのも面倒くさく無表情に淡泊に笑う。ふと時計を見ればもうすでに七時半を回っているところだった。ここで待っていたところで何か状況が変化するわけでもないし案内に従わないのは得策ではない。枕から備え付けの紐を取り出してぶらんと手首にぶら下げる。ふわあ、とあくびを一つして椅子から立ち上がると扉に向かって歩を進め、その取っ手に手をかける。「さて私は行くとするが君はどうする?」
 「…むむむ…、非常に納得がいかないがご一緒させていただくとしよう」
 石丸君は何か言いたそうに私の後ろをついてきた。




 「…それにしても八雲くん」 ドアを出たところで石丸が口を開く。
 「何だね?」
 「僕は重大な事実に気づいてしまった…八雲くんは《八雲》の人間。…要するに日本の『御十家』と捉えてもいいんだな」
 「うむ、その通りだが?」
 今更ながら、それがどうしたと言ったところだ。さて今更ながら『御十家』とは数字の一から始まり十で終わる権力一家の総称。《一宮》から始まり《十神》で終わる。もちろん《八雲》もその一家の一つであるのは言うまでもない。そういえば高校には十神もくるらしいと風のうわさで聞いたことがある。妙な偶然もあったものだと私は廊下の探索をつづけた。奇妙なことに監視カメラがいくつも設置されている。ほいほーいとそれに手を振れば石丸がその手をぱしりと掴んだ。思わずびくりとするが、その時には既に私の興味は別の方向へとそれていた。
 「君はなぜそんなに平然としていられるのだ? …何か妙な違和感があるとは思わないか」
 「ああ。…ん? あれは改造だな!」
 私が嬉々として壁に近づきボンボンと叩く。手を掴んだままの石丸君が「やめたまえ!」と私のもう一方の手を掴んで行動を静止に入る。ぷらぷらと手首にぶら下がる枕が間の抜けたように揺れた。しばしの沈黙が流れた後に、石丸君が真っ赤になって「すまない!」と私の両の手を解放した。奇妙な空気を漂わせた後に、壁を叩くことを諦めた私はまた歩を進める。


 「そういえば気になっていたんだが、その前髪はなんともならないのか」
 「…君が直してくれるのか?」なんだ、そうならそうと初めから言えばいいのにと彼の方を振り返りながら言えば、石丸がわたわたと取り乱す。
 「君は自分で直そうとする気はないのか! か、仮にも女性だろう!!」
 「身の回りはメイドや執事たちが全てやっていたから私は料理しかできないのだよ」
 「…身の回りの事は、料理よりも大事なことだろう! 料理は二の次ではないのか!」
 ふむ、と私が立ち止まれば石丸はなんだね、とおっかなびっくりした様子で続いて立ち止まった
 「説明しよう。料理は八雲家花嫁修業の一環で面倒だがこれが出来ねば嫁に行けないのだよ石丸君。要するに分からないものは分からない。くだらない論議を繰り返すと答える言葉も文字も酸素も句読点すら面倒になるからやめよう」
 「そ、そうか」
 「ところで石丸君」私が口を開けば、「次は何だ…!」と石丸君が身構えるのが面白くてまた淡泊に笑う。「君と話しているうちに着いたようだね」
 ひょいと私は右手の人差し指で玄関ホールを指さす。


 まったくもって面白いことになっている入口に、石丸君が「何だこれは!」と騒ぎ始めるまであと数秒たらず。















()(20100212-20120818:お題ソザイそざい素材)もう駄目だ石丸君がかわいすぎる一家に一人欲しい。私の身だしなみきっちりしてもらうんだぜによによ。