ラフマニノフ作曲の『ピアノ協奏曲第二番』、私はその曲を弾くためににどれほど苦労したのだろうか、覚えてはいない。記憶がなくなるくらいにずっとラフマニノフについて考え、どうやって気持ちを伝えたいのかを譜面から読み取る。自分自身、作者が考えていることがそれであっているのかは分からない。それでも私が弾くと褒められる。彼の曲は難易度が高いと言われているらしい、それが私にはあまり理解できないのはこの曲を弾いたのが物心ついた時だったからだと、そう思うことにしている。 「ラフたん、私には君のことが分からないよ」 ラフたんは十九世紀後半から二十世紀前半のロシアの作曲家で、リストやパガニーニと並び称せられるくらいに超絶技巧派ピアニストとして名を馳せていた。作曲に関してはチャイコフスキーを引き継ぎ、ロシアとヨーロッパの音楽を取り入れた作風でピアノ曲、歌劇、交響曲、協奏曲、歌曲などを作曲した。そういえばラフたんのピアノ協奏曲の三番は独走ピアノより技術や体力を使う超難曲だから私はこれを弾ききるために少し筋トレとマラソンを始めたくらいである。最初(確か幼稚園の頃だったと思う)に弾ききったときは体力がなさ過ぎて貧血で倒れたらしい。…とても懐かしい記憶がよみがえる。 「師匠、……師匠のラフたんが聞きたいよ」 うっ、と湧いてくる涙を堪える。…師匠、今一体どうしてるのかな。嘘だよね、あれは嘘なんだよね。 「う、うえぇ」 泣きながらラフマニノフの譜面を見つめる。もう完全に覚えているから、考えれば弾ける状態だ。ばーん、と緩やかに始まる第一楽章の初めは何かが始まるような雰囲気がする。忍び寄るような何か。まるで今の私みたいだ。押し寄せる不安に耐えきれないような私。息がつまりそうで、何か弾いていないと気持ちが落ち着かない。むしろこんな気持ちだからこそ、弾ける曲があるのだ。私は常にそう考えるようにしている。それでも、やっぱり。 「…師匠、ほーむしっくになりそうです」 寧ろ、師匠のラフたん不足です。 涙は止まらない。 モノクマという見た目はかわいらしいクマに見せられた映像は凄惨なものだった。私の大好きだった譜面は床にまき散らされ、無残にもびりびりに引き裂かれていた。あれはウン十万したのになぁ、と思ったけれどもはや過ぎ去ってしまったことは仕方のないこと。頭には完全にコピーされているからいいのだけれど、再び見ることができなくなってしまったのはとても名残惜しい。そして何よりも悲しかったのは、師匠の腕があらぬ方向に曲がっていたことだった。血だまりの中に倒れる師匠の腕、あれは完全に完璧に完膚なきまでに使い物にならないくらいに折れていた。捩じれて、こじれて、よじれて…それこそ、そんなものを見たことがない私にでも分かるくらいに、ひん曲がっていた。もう二度と師匠のラフたんが聞けない。私はそう思うととてつもなく胸が苦しくなる。 自室にグランドピアノを持ち込んでなんになると言えば、正直邪魔になる。でもそれくらい私には価値のあるものだから、私の師匠のものだから。私は弾き続けることしかできないのかもしれない。少しだけドアを開けて弾いているのは、もし…もし殺人が起こるなんてことになる前に私のピアノでその衝動が止まってくれたら、と思うからだ。 「師匠、私はできるだけやってみるよ」 「ラフたんのことは私が引き継ぐから」 「し、師匠…、大好きです、ッ、ししょ、う、師匠…」 第一楽章の演奏が中盤に差し掛かる。徐々に盛り上がる部分に差し掛かり、私の手はせわしなく盤の上を走る。 毎日弾いていたら、苦情が来るかもしれない、とか私が殺されるかもしれないとかそういう不安もあるけど。でも、それでも最後まで私は弾かなきゃいけない、そういう使命を持っているのだろう。弾かなければ、体が鈍ってしょうがない。ラフたん、頑張るよ。私は君を越えなければならないんだ。私はなにかの衝動に駆られるように、ずっとピアノを弾き続けた。 *** ちょうど第三楽章に差し掛かろうとした時だったと思う、ぎいっと扉が軋む。私は殺されてもいい、だけど二番だけは弾ききりたい。私は指を滑らせる。 「なぁ、ちょっとだけ、聴いててもいいか」 「…く、桑田くん?」 私は声を聴いて、顔を上げた。初対面でも声で覚えているのは、おそらく私の絶対音感もちょっと影響していると思う。ばっちりと桑田くんと目が合う。桑田くんが、一瞬目を見開いて「お、おい、何で泣いてンだよ」といったことで私は頬に手を当ててみる。涙の跡が酷くて、そういえば泣いてたよなぁと思い出す。多分今は相当目が腫れていてひどい顔なんだろう。 「う、…うぇ」 「お、オイオイ、泣くなって」慌てた桑田くんが近づいてくる。 「…桑田くん、腕壊しちゃったら何もできないんだよ? …桑田くんも投手なら分かってくれるよね、腕の大事さ」 「…はあ? …まァ、そりゃな。オレは腕がなきゃ投げれねーし」 「ピアノもね、一緒なんだ」 「はぁ? …まァ、そう考えてみりゃ一緒だろーな」桑田くんが、うーむと悩む。 「あ、あのね…私二度と聞けないんだよ、師匠の演奏大好きだったの、なのに…! …師匠の腕、ぼきぼきにねじまがって…」 ぼろぼろと大粒の涙があふれてくる。 「師匠がいないなら私、もう駄目だよ。生きる価値がないのと同じだよぅ…」 「ちょ、ちょっと待てって、何の話…だよ」桑田くんの手が私の肩に乗る。 「う、あ…ごめん…ごめんね、こんな話しちゃって、…聞きたくないよね」 「そ、そういう意味じゃなくて、あー、それじゃあ、それってもしかしてもしかすると、あのDVDの…」 こくん、と私は頷く。 「ごめんね、ちょっと感情的になっちゃった、でも気にしないで」 ――師匠がいないなら、私ここから出たところで仕方ないもの。 ぽつりと呟いてしまった私の言葉に、桑田くんがどう思ったのか、俯いてしまった私には分からない。 絶望よ、あなたが絶望を望んでいるならもうこれで終わりなんじゃないのかしら。私にとってクラスメイトよりも大事なもの、それが師匠ならば彼そのものがなくなってしまった今、私はもう絶望のどん底にいるに過ぎない。だからあの映像は私にとっては逆効果だったのかもしれない。ラフマニノフを弾いているときに少しだけフラッシュバックのような記憶が、映像として蘇った。拍手が聞こえる。歓声が聞こえる。私を呼ぶ名前が聞こえる。聞いた音は忘れたことがない、だから聞き覚えがある声にデジャヴを感じたのかもしれない。初対面のはずなのに。初めて来た場所のはずなのに、私は以前にもここで演奏したことがある、この部屋で、この空気を吸ったことがある。この感情を抱いたことがあるのかもしれない。ダメだ…これ以上は思い出せない。 「桑田くん、私あなたに会ったことがあったかな」 「はぁ? 何言ってんだよ、初対面の初会話ってヤツだろ?」 「聞いたことあるの、桑田くんの声」気のせいじゃないことが分かるから、どうしても気になってしまう。でもここで会話するのは得策じゃないかもしれない。私はあわててごまかした。「あ、でも桑田くんってテレビにも出てるから気のせいだよね」 ごめんね、変なこと言っちゃって。気にしないで、と平静を取り繕う。 「…せっかく来てくれたんだから、一曲、聴いて行って」 「…あー、オレは」 ぽりぽりと頭をかく桑田くん。 彼は聴いていきたくないのかもしれない。用事でもあるのだろうか、でも…だとしたら、…なぜ? 一瞬嫌な予感がよぎる、まさか、そんなはずはないとは完璧には言い切れない状況下だ。私の映像が『動機を通り越した絶望』しかもたらさないならば、ほかの人のものは『動機程度の絶望』にもなりうる可能性はあるのだから。 「桑田くん…お願い、私なりの罪滅ぼしなの」 引き留めるしかすべはないと思った私は桑田くんの腕をきゅっと掴む。「怖いの、腕が使い物にならなくなるのが…、誰でもいい誰かに一緒にいてほしい。…だから、お願い」不可抗力で涙目のまま桑田くんを見つめれば、案外簡単に桑田くんは引き留められたみたいで、ぎゅっと桑田くんが私を抱きしめる。 「しゃーねぇな、今晩は一緒にいてやるよ。ったくよー…モテる男はつらいぜってか?」 「ありがとう、桑田くん」 そして私はラフマニノフ二番、第一楽章の旋律を奏でるのだ。
(20110212)絶望は希望をも生み出す、なーんていう桑田がもし引きとどまってたらみたいな話。桑田がピアノ女子の部屋に入りこんじゃうなんてできねーだろーアイツチキンだし、とかいう突込みはスルーですのであしからず。 お題:LUMP |