とうとうこの日が来てしまった。一ヶ月経ったこの日、もう既に春休みに入って幾日かが過ぎていき、いつのまにやら現実感の薄れた包み紙が机の上に鎮座していた。くしゃりとしなびたような包み紙は、まるで今の俺のようだ。はぁ、とため息をついた俺は本当に奥手で、それを指摘され反論したとしてもいつも以上い説得力がないことは重々承知だった。ヘタレと馬鹿にされても、今なら仕方ないかもしれない。返事をしようかどうしようか、幼なじみでも何でもないあの女の考えることは、本当に突拍子もなくて、全く分からない。予測不可能に近い。このちょっとしたチョコレート騒動の始まりは、そんな彼女がこのチョコレートを渡してきた一ヶ月前にさかのぼる。






 「サナダムシ君」
 「・・・お前いい加減その呼び方やめろよ」
 いつも通り学校でそそくさと帰ろうとする俺をが引き留める。クラスでは無口で人付き合いの悪いイメージで通しているので進んで話しかけてくるのは気のある女子か、学校関係の頼まれ事をされたか、好奇心ありふれた厄介なお節介か、どれかに絞られてくる。は明らかに三番目だった。厄介なやつではあるが、迷惑ではなかった。迷惑と偽善の合間を縫ったような、詐欺師のように軽やかな口調で、あのとき彼女はこう言った。


 「バレンタインおめでとう、きっと腐るほど貰っているだろうけど仕方ないからあげるよ」


 どこかのテレビでみたことのあるような、顔にパイを押し付けるゲームのように、彼女は俺の顔にチョコレートの入っているらしい箱をべしっと押し付けてそのままスタスタと帰っていった。本当に変な女だと思っていたけれど、やはり今まで出会った人の中でも相当変な女の類に分類されるのだと思う。話しかけようとすれば、もう既に教室に彼女の姿は無い。義理のチョコレートだとは分かっていたとしても、礼も言わずに何かを貰うのは少しだけ腑に落ち無い所があったから。
 慌てて鞄に荷物をつめて、廊下を走れば、簡単に下駄箱にいた彼女に追いつく。は俺の事に気付くこともなく、マイペースにローファーを取り出してつま先をとんとんと叩きながら履いている途中だった。


 「ちょ、待て……って!」
 「サナダムシ君、わたしに何か用でもある?」
 「用ってほどでもないけど、」そう言ったとたん、が俺に興味を失ったとでもいうように肩をすくめて上履きをロッカーに乱雑に入れた。それでも続きはまだなのか、と俺の言葉を待っていてくれるらしいので、俺は下駄箱からスニーカーを取り出す。礼を言うのは少しばかり、その、照れくさかった。「その、なんていうか……ありがとな」


 その時の彼女の顔は、今でも忘れようにも忘れられない。お礼を述べた瞬間に、きょとん、とした表情をうかべてまるで異星人が突然目の前に現われて何か言葉を発したような、奇妙なものを見る目で俺を見ていた。わからなかった。どうしてそんな表情をしているのか、どうしてそんな反応をされているのか、一種の冗談かと思ったけれども彼女がそんな器用な真似ができるはずがないのだし、だから本気で驚いているのに他ならないことになる。そしてその時の俺には、それが全く理解できなかった。その後、数秒、数十秒の沈黙のあとに唐突に、「ばかたれ!」と叫ばれたことも。






 そしてその後から彼女は話しかけてこなくなった。おかしいと感じ始めたのは、それから一週間たったころで、二週間目にはもう既に通知表も受け取り春休みに入っていた。チョコレートの存在なんて少し忘れかけていた。というのも、俺はサッカーの練習に明け暮れていたし、彼女のチョコレートがまさか本命だなんて夢にも思っていなかったから。その時は、ただひたすらに目の前のボールばかりを蹴っていただけだった。その先の事なんて何も気にせずに生きていた。まるで幼いこどもみたいに。将来ある苦いもののことなんて、知らないとばかりに。

 気が付いたのは三週間目を過ぎたころだった。チョコレートもなくなりかけていたその頃、箱の中に入っている中敷きが少しだけ浮いていることに気付いた。そして、気づかなければよかったと、瞬間的に思った。しかしその時には既に中敷きを取り払っていて、ぱらぱらと残りのチョコレートが部屋に散らばる。やはり、と言うべきだろうか。中には一枚のメッセージカードの入っているだろう封筒が仕込んであった。どきりと固唾を飲んでその封筒を開ければ、中にはかわいらしいカードが入っている。そして内容は、やはり一筋縄ではないにしろ、それに準じた内容が丁寧な文字で記述してあった。


 そして頭を抱えた日々が始まる。
 何をしても、精神面が邪魔をして何も手につかなくなってくる。そして今に至る。


 「何してんだよ、一馬」
 「……ごめん」また結人のパスを受け損ねる。ころころと転がっていくボールが、ざまあみろ、とでもいうように俺を見ている。
 「ここのところ、何か上の空だって顔してるけど何かあったの」
 「そう言う訳じゃ……」
 「あったんでしょ」後ろから近付いてきた英士は何かを見透かしたようにふっと口角をつりあげた。「一馬はわかりやすいからね」
 後ろで結人がけらけらと笑っている。俺はため息をつきながら琴の詳細を話しはじめる。からかわれるのなんて重々承知していた。


 「それで一馬はどうしたいの?」一通り話し終わって、英士が最初に投げかけてきた疑問はそれだった。
 「そうそう」結人が英士に同意する。「それがジュウヨウだよなー」
 「俺は……わからない」


 俯きながらそう話せば、結人が「なんだよそれー」とため息を吐く。困ってるのはこっちだ、と叫びだしたい気持ちもやまやまなのだが、そんな事をしたところで事態が改善されるわけでもないことは明白だった。俺は肩をすくめる。それと同時に英士がため息を吐く音が聞こえた。


 「ねぇ、一馬はその、さんって子が好きなの?」
 「別に……」
 「じゃあ逆に聞くけど、嫌いなの?」
 「それほど嫌ってわけでも……ないけど」
 「あー、もうはっきりしないよな。かじゅまちゃんは」
 ぎりぎり、と奥歯を噛むような苦虫を噛んだような顔をして結人がぐいっと距離を近づけてくる。「お前、そんな事してばっかだからすぐに逃げられるんだよ。この結人様を見てみろ。可愛い彼女が手に入り放題ってね」
 「その可愛い彼女と別れてばっかりの人に言われてもあまり説得力は無いよね」
 「英士」結人が反論の声を上げるけれども、あながち間違ったことは言っていなかった。


 それよりも、俺が気になっていたのは、俺がの事を嫌いではないという事だった。一緒にいても、いい。初めて同性ではなく異性でそう感じた。『友達』というそのくくりではない、その関係になるのかもしれないと考えたところで、別に彼女なら大丈夫だと思えた。そこではたと気づく。それほどまでに、が俺の中で存在が確立されているということに。そして、少しずつ意識をしはじめているということに。


 「ホント、きっついよなー。英士は」
 結人が愚痴を漏らしている。「結人も悪いだろ、それは」



 俺は適当に相槌を打って、先帰ると言って帰路につく。もはや覚悟は決まっていた。荷物を持つと、足はの家に向かっていた。






ひとつぶの勇気















(20120217:ソザイそざい素材