(朝靄の向こう側)




 朝靄に包まれたその人影に目を凝らすと、それは案の定チョウジだった。
 胸の高鳴りを抑えながら、近づこうか近づくまいか迷っていると向こうがこちらに気づいたようだ。近づいてくる足音が響いている。どうしよう、隠れる場所なんてないのに、なんて思っていると話しかけられてしまった。


 「ちゃん」
 「チョウジ」


 なんということだろうか、名前を呼ばれてしまった。なんて思っていると、ちょうど良かったーなんてほんわかした笑顔で言われたものだから心臓がもうバクバクしていて話せる状況ではない。もう私の馬鹿、何てザマだろう。考えている間も鼓動は早くなるばかりで、普段の調子に戻る様子は見せようとしない。それどころかますます早くなって私の気を狂わせる。恋なんてアホらしいものじゃなかったのか、と以前の私の自論を唱えてみたが残念なことに効力は得られなかった。


 「これ、ホワイトデーのお返しなんだけどねー」
 「うん」


 彼の手には赤いリボンで包まれたピンク色の紙袋。よく見れば白いドット柄である。とてもかわいい。ひょい、と差し出されたそれを受け取ると、緊張して頭がどうにかなってしまいそうだ。もう嬉し過ぎてどうすればいいのだろうか。こんなにあたふたしていたら、ヒナタと同じではないか。体温の上昇を感じながら、冷静さを欠かさぬように振舞う私。とても強がりに見えることだろう。でも、こんな接近して話してるなんてこと滅多にないんだから仕方ない。


 「ありがとう」


 私はかろうじてお礼を言うことができたが、顔なんて見ることすらできない。ただでさえ体温が上昇して赤いと思われる顔を晒すなんて醜態がどうしてできようか。できるはずがない。


 「それ、ちゃんの好きなマフィン」
 「!」
 「作ったんだけど、もし良かったら食べて」


 ほんわかと笑う彼に、私は目を瞬かせる。まさか好きなものを覚えていてくれるなんて、感激しすぎて涙が出そうなのだ。でも泣いてなんかやらないんだって、感動の涙をこらえながら歯を食いしばる。正直なところとても嬉しい。でも私がバレンタインのとき、彼に上げたのは残念なことにみんなで作った義理チョコなのだ。それにも関わらず、私の好きなものを作ってくれるなんて、私はどうしたらいいのか分からないような想いで胸が詰まる。


 「私の好きなもの、覚えててくれたんだ…」マフィンを見つめながら、私は言う。
 「うん、だってボクも好きだから」


 死んでもいい。ふと、そんな言葉が脳裏を揺らめく。彼が好きだなんて言っているのを聞くだけで鼓動が高鳴る。もう完全に恋の病にかかっている。病んでる。病みすぎている。もうこれは止められそうにないくらいに、病んでいる。


 「嬉しい。家に帰って大事に食べるから」


 私が精一杯の気力を振り絞ってにこやかに笑う。うまく笑えているだろうか。そんな不安ばかりが脳裏を掠める。大好きな彼の前で醜態を晒すなんて、乙女にあってはならない鉄則だ。だから私は、彼の前では普通の女の子を演じている。駄目だと思っていても、普通の女の子になってしまうのだ。やっぱり私は病んでいる。どうしようもないくらい、彼に釘付けだ。


 「ボクちゃんのことも、大好きだからね」
 「私もチョウジのこと、大好き」


 夢のよう、それは朝靄のせいも少しあって。
 思わず告白に告白を重ねてしまって、私は何をしているのか一瞬何かわからなくなったけれども、彼が私を好きだと言う事実があって少し安心したせいだと思う。彼が私を好きでいてくれて良かった、とか。私が彼を好きでいて良かった、とか。これ以上幸せな気分なんてないんだとか。これはもしかすると夢だったらどうしようかだとか。もういっそのこと夢であっても怖くないとか。そんなことを思ったりして。


 「じゃあ、また明日ねー」
 「うん、ばいばい!」


 さわやかに颯爽とかわいらしい笑顔で去っていく彼は、とても格好よくて。
 私は笑顔が笑顔になっているかどうか確認する前に、朝靄で意外と視界が悪いことに気づく。そんな訳で実は表情が良く見えないんじゃないかとか気づいたときには、もう既に彼と別れた後だったなんて。何てひどいオチだと私はもう笑うしかなかった。










()(20090314)