(沈黙が生まれるとき)




 ホワイトデーにデートに誘われるというのはいささか気乗りしない。というのも、私はデートが苦手だからである。私とデートへ行っても楽しくないですよと彼には念を押しておいたのだが、まったく聞き入れられなかったところを見ると、どうやら私はデートに行かなければならないようだ。とても面倒だ。
 朝早く起きて家の中でのんびりと着替える。温かいコーヒーを入れて、朝食にトーストを一枚かじる。トーストを口に咥えて、コーヒーのマグカップを片手にコタツへと移動した。まだ寒い外気に触れたくないしギリギリまでここで粘ろうと思いつつ、だらだらとコタツの中で暖をとりながらトーストを食べる。それにしても、今日は春なのに少し寒い。信じられるだろうか、こんな日に外へ出るものではないことは私が重々承知だ。最近は任務も平和なものしか来ないし、暗部時代にしていた暗殺や潜入捜査などの危険任務からは疎遠になりつつある。多少私は平和ボケしているのだろう。
 それにしても、今日は平和だ。


 私は残りわずかになったトーストを口に押し込んでコーヒーで飲み込むと、コタツの電源を切って黒のスプリングコートに腕を通した。玄関へ行って動きやすいヒールのないブーツを履き、忘れ物がないか確認する。財布は持った。完璧だ。私は玄関を開けて外へと出る。ドアを開けた瞬間に、ぴゅうぴゅうと風が頬を刺して一瞬ドアを閉めそうになるが、気力で外へと出る。それにしても、寒い。
 私は、玄関の鍵を閉めると石畳を一段一段降りて、入り口の通用門を開ける。家にはまだ母と弟が寝ているはずなので(彼らは休日には昼過ぎまで寝ているのだ。うらやましい限りである。)泥棒が入ったところでまあ気配くらいは気づくだろうな、と思いながら通用門を閉める。閂は内側からしか閉められないのでそのまま内側の扉に立てかけておく。私は面倒面倒、と呟きながら待ち合わせ場所へと向かった。






 「まあ来ていない事だとは思ったけれども」


 時間通りにこない彼のこと。こちらは時間ぴったりだというところで、いないのは想定の範囲内である。しかし寒いのでこんな寒い中一時間も待たされるなんてことにならないといいが、なんて考えていたら後ろから気配とともに軽い衝撃が襲った。
 「よっ! 今日もかわいーいね、チャン」
 「寒い」

 一言目にこんなことを言う彼女も彼女だがそれにしたってこの彼氏も彼氏だ。よくわからないことこの上なく、掴み所がない。付き合うにしたって彼からだったし、私はよくわからないままにいつの間にか恋人の位置にいたようなものだった。恋愛って意味がわからないと友人に話したら、あなたの行動のほうが意味がわからないと返されたが、まあそれはさておき。


 「珍しいね時間通りにくるなんて見直しちゃった」
 「棒読みで言われてもねぇ…、相変わらずつれないねぇその態度」
 「そうかしら、ありがとう誉め言葉として受け取っておくわ」


 彼は私の態度に呆れたようなため息をつくと、「ま、いいけど」と呟く。
 「で、今日はわざわざ呼び出して何か用かしら?」
 私は腕を組んで彼と向き合うと、彼に問いかける。
 「デートでしょ」
 彼はそれ以外に何があるんだと言わんばかりに、首をかしげた。私はさらに問いかける。
 「どこに行くの?」
 行くあてはあるの、と私が問うと彼は映画館でもどう、と答えてきたので了承する。私はこれで動物園とか遊園地なんて言われた日には寒いから帰るか別の場所にするか提案しようと思っていたので、彼って私のことを分かっているじゃないかとニコリと笑う。ちょっと優越感だ。…なーんてそんなことを思っているあたりが惚れた弱みというやつなのだろう。長年付き合っているうちに好きになってしまうなんて、私もつくづく単純な人間だと考えた。


 「じゃ、行くとしますか、チャン」
 「はいはい分かりましたよ先輩」


 その先輩って呼び方何とかしてって言ったでしょ、と言う彼を、はいはい分かってますよカカシ先輩と一蹴。
 カカシ先輩もダーメなんて言ってきた彼には最終手段。
 「はたけ君」
 と呼ぶと彼はたいていの場合、呆れたようにため息をついて今日も駄目かーと肩を落とす。私の勝利である。




 映画館に着けば何を見るかどうか選ばなければならない。それは必然性を兼ね備えているものであって、別に何を見てもいい私は彼が見たいものでいいと決定権を彼に譲った。彼が選んだものはタイトルからしてよく分からないものだったが、いつも読んでいる本の映画ではなかったので少し安堵した。さすがにイチャイチャシリーズを見るとなってはそれ相応の覚悟が私のほうにもいるからである。
 彼が選んだのはどうやら、最近公開された探偵ものらしい。ミステリが好きな私の趣味に合わせてくれたようで、何よりだ。彼女の趣味をきちんとリサーチするのはいいことだ。なんて思っていると、彼は「これで良かったよね」と、にっこりして事後報告。
 「勿論」
 と私が答えると、彼は良かったと微笑みながら私の手を引いた。
 私が驚く暇もなく、彼は座席へと私を案内する。ここだよと言われた席はちょうどスクリーンの真ん中あたりの一番見やすい席だった。


 「いい席ね」と私が言うと、彼は「うん」と、頷く。




 映画の始まる音、映画館の照明が徐々に暗くなっていき闇の中。スクリーンが私を見てと言わんばかりに輝いて音を放っている。



 「チャン、」ふと彼のほうを振り返れば、なんといつも口元を隠しているマスク(仮称)がない。何事かと状況判断が追いつかないままに暗転。唇に何かやわらかい感触。かかる吐息。ふと気づけばもうすでに彼はマスクで口元を隠しており、特に素顔の余韻に浸ることはできなかった。それにしても急すぎるなんて思っていると、彼は一言。「ご馳走様」と呟いてスクリーンに視線を戻した。

 叫びたい気持ちを抑えながら、静寂に身をまかせる。静かだ。静か過ぎる。
 この鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと言うくらいに、静まり返っている館内。






 ただ録音された音声だけが響くこの映画館の中で、私たちは沈黙のまま映画を見ていた。
 勿論私の頭に映画の内容なんてこれっぽっちも入ってはこなかったなんて彼にはお見通しなのだろうと思うと苦笑するしかなかった。










()(20090314)