月と言うのは、不思議な存在だった。幼い頃にも同じことを思った記憶がある。
 月にウサギがすむという逸話を聞いたが、ウサギが月に住む事ができるならば人間も同じように月に住む事ができるはずだという考えを人に話したら、母親に真っ先に否定された。人間は酸素が無いから住むことは出来ないよ、と。しかしそんな事を言ったら、ウサギだって酸素がなければ生きていけないではないか。と今になって思うが当時はそれで納得していた。なんて浅はかで純粋な人間だったのだろうと、当時の自分を懐古しながら私は月を眺めた。


 「月には何も住んでいないよ」私が言った。「月に生き物なんていないんだ」
 「しかしまたそんな面倒なことを考察しなくてもいいじゃないですか」
 「君が言うほど面倒ではないよ。そして考察という考察も私はしていない」


 私は、哲学的に考えているだけだ。決して考察しているわけではない。と彼の腑に落ちぬ考えを改めてやった。しかし本人が納得しているかどうかなどは私には理解できないので表面上に現れる表情の変化と声のトーンの移り変わりなどで判断しなければならない。月などに比べれば人間の感情のほうが複雑に作られている。人間の全てを知ろうということなどはしない方がいい。考え方などは人それぞれで違う訳だしそのうえ、、面倒な感情に左右されるとそのパターンは数え切れないくらいになるからだ。そんなものを考察するぐらいなら、月を見ていたほうが有意義に時を過ごすことが出来るだろう。


 「全く貴方という存在は、僕には理解できない。一体何を考えているのか他人に悟られないようにしているかのように、その心理は見えないのです。僕に言わせればまるで海の底のようだと思います。一人の人間であることはこの僕にも理解出来た気がしますが、それにしても僕と同じ種類の人間という実感はてんでありません」
 「当たり前だろう。同じ種類の人間なんて一人としてこの世には存在しない。それはある程度の分類には分かれるだろうが、細かく言えば個人個人という此処の生命体に属している。例えばあの月を見た所で感じ方は様々だ。美しいと感じる奴もいれば、気持ち悪いと感じる奴もいるし、穏やかだと感じる奴もいれば、不気味だと感じる奴もいる。しかもそれは人間の思考力的な問題とその時の感情、そして年代によってもその感じ方は様々だ。全く同じ気分でその言葉を発している人間などはそこには存在しない。凄く感動したといっている人間が100人いた所で同じ感情の人間は一人としていないよ」
 「そんなもんですかね、人間って」
 「それだから人間が面白いんだろう、それで無ければ私は人間をやめているだろうな」
 「止めてくださいよ、嫌な冗談は」
 「ははは、私は何時だって本気で言っているとこの間君に言ったばかりだろう」
 「仰るとおりです」
 「分かればよろしい」

 私は重くなった腰を持ち上げて伸びをする。白衣についた砂を払うと、ぱらぱらと地面に落ちた。






 僕の先輩は不思議だ。
 一言で表現する事など出来ない程に彼女は不思議な空気を纏っている。
 それは、まるで深海のように深く暗いものでその根本的なものを知る事など今の僕にはできないだろうと絶対的な確証を持って証明する事が出来る。彼女に関する表面的な知識ぐらいなら他の人よりも持っている僕だが、それにしたって彼女の内面的な性格に関することだとか何を考えて行動しているかなんてことはその知識をいくらもっていたとしても全くもって分からないのである。
 一言で言えば謎に包まれているのだ。



 彼女は海という存在に近い。
 多分大きさで言ったら太平洋ぐらいに大きいのだろう。しかし今の僕にはそんな海を知る事の出来るだけの技術も道具ももっていない。今の僕が彼女に興味をもっている事は明白な事実であり、彼女のことを知る術を知らないが故に途方にくれているだけなのだ。しかしこの気持ちを彼女に打ち明ける勇気などは微塵も無いし、この関係を壊す気もさらさらないのである。
 こんな居心地のいい関係を壊すなんてどうかしていると思った。


 「君は海の心理について考えた事があるだろうか」
 「ありませんけど」
 「なんだ、詰まらん奴だな」先輩が如何にも残念そうに溜息をつく。
 「貴方は訳がわからない人です」
 「君も私にとって訳がわからない奴の一人だ」先輩は乾いた笑い声を上げた。「私と会話が成立する時点で、私にとって訳がわからない奴の一人としてカウントされる事になっているからな」
 「先輩、言っている事が滅茶苦茶です」
 「昔から代わらないだろう、」先輩はニヤリと、含み笑いをした。「君も私も」
 「そうですね、変わりませんね」僕も、貴方も。


 互いの腹のうちなど分からない。
 しかし今はこの瞬間を貴方と一緒に過ごす事が出来るだけで幸せです。



 願わくば貴方も僕と同じ気持ちでありますように。



 先輩!ってついてくる後輩ほど可愛いものはない。






 彼の行動パターンはいたって簡単である。


 物語の主人公というものは、いたって単純な性格の人物が多い。なぜならば、書き手が書きやすいからである。
 最も、頭が良い人物ほど書きにくいというのはその人物の頭脳に作者の頭脳が追いつかないからであって、決して人物設定が悪い訳ではない。ただ単に、著者の文章の構成ミスが悪いのである。しかし、物語の中に頭の良い人物が一人もいないと大抵の場合、説明役となる人物がいなくなってしまう。そうなると、読者は主人公と同じく路頭に迷いその物語の趣旨が全く伝えられなくなってしまうのだ。
 「文学小説など、ある程度量を読んでしまえば展開が読める。展開の読める作家などゴミ以下だ」
 天才学者である彼女は言った。
 「しかし、ゴミ以下といっても読み手によって価値観は変わるのでしょう?」
 僕は首をかしげた。人間というのは複雑だからである。
 「全く君の言うとおりだ。私にとってゴミにも値しないような小説が世の中では持て囃されているそうじゃないか」
 本当にくだらない何だあの横書きの文字と素人が書いた文体は。気持ち悪いあんなものは小説ではない。
 先輩はそう愚痴を吐き出すと、続けざまに毒を吐く。「あんなものは本にするに値しない資源の無駄だやめてしまえ」
 先輩が言っているのは、多分、というか確実に女子高生が主にもてはやしていると噂の携帯恋愛小説のことのようだ。僕も先輩と同じでその手の小説は苦手というか反吐が出るほどに嫌いなので彼女の意見に賛同する。まどろっこしいのは嫌いだ。
 「ほう、君にもそういう所があったのか」
 僕の言ったことを聞いて、彼女は感心したように僕のほうを見た。
 「男はそういうの興味ないですよ」
 「ふむ、まあ参考にでもしておこう。しかし君がここで興味があるなどと仮にでも答えていたとしたら、私は君を見捨てただろうな」先輩はどさくさにまぎれてとんでもない事を言い出した。
 「酷い冗談ですね」僕は言う。
 「冗談は私は嫌いだといわなかったか」
 先輩は、こちらをジロリと持ち前の三白眼で睨んだ。目元にうっすら隈が残る所を見るに、どうやら昨日は徹夜だったらしい。
 「申し訳ありません」
 「分かればいい」
 物分りのいいヤツは嫌いじゃない、と先輩は書類と先程まで読んでいた小説を片手にぼやいた。


 「この小説の内容は大体把握したんだがな」
 「はあ、」僕は曖昧に返事をする。レポートは誤字点検がまだ終わらない。「それでどういう内容だったんですか」
 「実にくだらない男女の恋愛劇だった」
 しかし語る先輩に、その空気はなかった。寧ろ楽しんでいる空気がにじみ出ている。
 展開聞きたいだろ、という空気だ。
 「そうですか」僕は曖昧に返事をする。机の上のレポートを見つめていると、だんだんとレポートなんてどうでもいいかという気分になってくる。しかしまあ、これ一つで僕の配属先が変わってしまう可能性もあるのでレポート提出という作業は僕にとって比較的慎重な作業となるのだ。何らかの手違いなど一つとして存在してはならない。しかし、僕も先輩と同じく徹夜明けなので眠気は既にピークである。先輩のように元気に話してなどいられない状況だ。
 ちなみに、先輩とは向かいあわせの席なので書類の束越しに隈のある目がこちらを見つめているのが気配でわかる。
 机に置いた小さな蛍光灯の明かりが揺らめく薄暗い室内に、熱帯魚の水槽から、ぶーんという低い音が響いた。
 「それでは、まあ一部抜粋してみようか」
 「はい、どうぞ」
 「『実にくだらない、俺の人生は君なしでは始まりもしなかったのも同じだ』」
 「なんですか、それ」臭い台詞ですね、と苦笑しながら僕が言うと先輩は、全くその通りだろう、と無表情に同意した。
 「しかしな、コイツがまた振られるんだ。こんな臭い台詞を吐くからこうなるんだと思うのだが」
 『気持ちが悪いから止めてください、もう二度と私の前に現れないで』
 「全く酷い振られ方ですね」と、また苦笑しながら僕は言う。
 「全くその通りだろう」と先輩もまた無表情に答えた。
 「何でそんなに酷い振られ方したんですかね」と、僕がレポートと睨めっこしながら問いかけると先輩は気が付いたように言った。「ああ、その経由を話していないな」
 「忘れてたんですか」
 「多少」
 ハハハ、と乾いた愛想笑いをした後に先輩は続ける。
 「この男、実は三股かけていたんだよ。全く罪な男だ」
 振られ方も酷ければ、落ちも酷い小説だった。と彼女は笑った。
 「しかしまあ、久しぶりにこのような馬鹿げた笑い話のような小説を読んだよ。君もよければ読むといい」
 「はあ、」しかしまあ、レポートは何となくだが点検は済んだ。後はステープラで左端を止めて提出するだけである。「それでは、暇になったので読んでみます」
 「いい心意気だ」
 先輩はうんうんと頷いた。そして小説を僕のほうにぐいっと差し出すと、いそいそと部屋を出て行く。
 「何処か行くんですか?」と僕が問うと、「眠たいから寝る」という答えが帰ってきた。
 ドタンバタンという音とともに扉が開いて閉まる。シンと静まり返った室内には、熱帯魚の水槽のブーンという音が響いた。先程開けて閉めたばかりのドアからどうやら虫が入ってきたようでバタバタと羽虫の羽ばたく音が聞こえた。蛾だろうかと推測する。
 レポートに目を落とす。適度な感じにまとめたつもりだ。これで此処の部署に正式に配属されなければ僕は考えなければならない。先輩と係わり合いになる日数が減ってしまうことはどうしても避けたい事実であった。
 ステープラを引き出しから探り出して、パチリと紙の左端を止める。
 きっと先輩は昼頃まで起きては来ないだろうと何となく予測を立てる。
 そしてきっと起きてきた途端にこの本の感想を尋ねてくるのだろう。
 「それまでに読んでおかなければ」
 変な義務感が僕を襲った。
 そして僕は徹夜明けの眠たい目を擦りながら本のページを開いてパラパラとめくる。
 僕は速読が得意である。自慢ではない。なぜならば速読というものはこの世界において常軌的なものだからである。よって僕の本を読むスピードは一般人に比べれば格段に速い。これが眠気と格闘する上で唯一の救いであろうか。これを読み終わったら寝よう、と僕は考える。頁をペラペラとめくっていく。


 本の展開は面白いものだった。先輩は態とつまらないと言ったのではないかというくらいに喜劇調な話だったので、何度か声をあげて笑いそうになってしまった。速読といえど僕の場合は仲間内でも極めて遅く一分に五十頁ほどしか進まない。なので、大抵の本は五分か六分かかる。それでいて内容は大体入るのだから、一冊に一時間も二時間も時間をかけて本を読んでいるというやつの気が知れない。公衆の面前でこんなことを言ったらポカスカと袋たたきにあうのだろうかと想像してみたら、おぞましい光景が浮かんだのでやめた。
 ちなみに小説の中の三股の男の名前は芝野忠一。二十半ばの会社員で優男、現代風で格好の良い根は真面目な青年である。勿論、そんなヤツだから女性にはモテる。しかしながら彼は女性から受けた告白が申し訳なくて断れないという欠点を持っていたのだ。全くもって身勝手な欠点だと笑っていると、案の定その欠点を突いた話が展開される。結果、三股していた三人全ての女性に振られ彼は少しほっとしたような気持ちになったと記述があった。
 作中の男は、全く卑怯だと僕はかぶりを振った。


 『今まで付き合った三人の方には、僕の不甲斐無さが分かったと思う』


 ――そして彼は許しを乞う





(20080306)