「後は福神漬けとジャガイモがいるよな」

 うだる様な猛暑の中、僕は近所のスーパーへと買出しに向かう途中だった。途中、コンクリートにぶち当たって跳ね返ってきた熱気が僕の肌を刺すように攻撃してきた。僕は道ゆく女の人のように日焼け防止の長袖やユーブイ何とかとか言うものの入った傘などを差してはいないので、コンクリートからの跳ね返りの熱気たちは僕を格好の獲物だとでも言うように襲ってくるのである。だから、とても熱い。

 僕の家は都内の集合住宅地にある、二階建てで燃えるように鮮やかな深紅の屋根が特徴の一軒家だ。同じような家がつらつらと軒を連ねて立ち並んでいる家々は、世間で『デザイン新世代集合住宅』と称されていた。この『デザイン新世代集合住宅』は今から五年前に建てられた物で、僕たち家族は当時住んでいた父さんの実家から僕が七歳の時に引っ越してきた。もちろん実家で一緒に住んでいたおじいちゃんやおばあちゃんは寂しがったけど、父さんの転勤も重なっていたので僕らはしかたなく父さんの実家から引っ越したのである。僕も本当は学校を転校するのが嫌だったから引越しには反対だったのに、お父さんの仕事だから仕方ないでしょ、と母さんに言いくるめられてしまった。

 今日の昼食の買い物もそうだ。「お母さん大変だからね、悟が代わりに行って来てくれないかな」と言って母さんは刑事物の火曜ドラマを見ながら僕に買ってきて欲しい物が書かれた買い物リストを手渡してきたのである。全く何処が忙しいのか大変なのか知らないが、母さんに人使いの荒い所があるというのは今に知れたことではない。時には僕ではなく父さんに家事を頼んだりもする。そしてやはり自分はというと部屋の隅の机に向かってごそごそと何かをしているのだった。どうも掃除ではないようだったが、それ以上は何をしているかは分からなかった。だから僕にとって母さんは要注意な謎の人物なのである。

 そんな訳で僕は今、母さんに頼まれた昼食のカレーの材料を買い集めに真っ昼間から徒歩5分の所にある近所のスーパーに向かっている。暑さの所為で汗がだらだらと頬をつたっていく。背中にも同じような状況になっているので、着ていたTシャツは既に背中の部分の色が汗で濃く変色しているのだろう。その背に背負っているリュックも多分湿っていることだろう。

 濡れていて気持ち悪いTシャツの袖で額の汗を拭いながら、僕は首からぶら下げている透明のポーチを眺めた。千円札についている男の人が、買い物リストと一緒にこちらをにらみ返してきたので、僕は慌てて顔を上げる。何でお札に顔なんて付いているんだろう。硬貨には全く付いていないと言うのに。

 スーパーに着くと、僕はまず野菜売り場に行ってジャガイモがニ・三個入っている袋を手に取りプラスチックの買い物カゴに入れた。ニンジンと玉ネギも同じような袋に入っているものを手にとってカゴに入れる。後は漬物売り場に行って福神漬けを買うだけだった。それだけのはずだったのだ。しかしそこで事件は起こった。




「おい、お前」

 後ろから男の声がした。一瞬、誰に言ったのか分からなかったのだが、どうやら僕に向かってはなった言葉らしい。「お前だ、お前。――そこのガキ」とせわしなく捲し立てている。僕は、これ以上後ろに立っていると思われる男に関わりたくなかったのだが、取り敢えずスーパーの中で大声を出されて他の客に迷惑がかかってしまうのが嫌なので後ろを振り返ることにした。

「なんでしょうか」と、僕は比較的にこやかに応答した、――はずだ。

 しかし男はこちらを見て、獲物を見つけた鷹のようにニヤリと哂った。ように見えた。

 それは貪欲なケモノの様に、ニタリと言う効果音の着きそうなほどにいやらしい笑みを浮かべたのだ。悪巧みをしているのがありありとその様子から分かった。だが、僕にそれをどうにかしろと言われてもどうしようもなかった。男は言う。

「お前、その材料をさっさと買え。それから話に付き合ってもらおうか」

 男は僕の不安を察したのか無表情に戻ってそれだけ言うと、いかにも僕の保護者であるかのようにピタリと僕の後ろに続いた。何だかRPGで知らない人を仲間にしたような感じがする。僕は早々に福神漬けをカゴの中に入れてレジへと足を運んだ。男が付いてくる。

「ああ、サトちゃんかい。買い物の手伝いえらいねえ、今日はおじさんも一緒なんだねえ」

 うんうん、と頷きながらレジのおばさんが僕に一方的に話しかけてくる。おばさんは、話しながら慣れた手つきで商品のバーコードをさっさと機械に読み取らせていた。凄い器用だな、と僕は思う。適当に生返事をしたあとに、僕は千円札をおばさんに手渡して商品を受け取った。男と共にレジを出て、僕は買ったものを適当にリュックに詰める。僕はレジ袋は使わない主義だ。そのことを分かっているおばさんも、僕が来る時は必ずと言っていいほどレジ袋をつけない。僕が全部つめ終わった所を見計らって男が言う。

「よし、付いて来い。坊主」

「はーい」

 男は、踵を返してすたすたと早足で歩き出した。今度は僕が男についていく。知らない人についていくなとよく言われるが、このときの僕はこの男の正体に興味があった。だから、知らない人についていった。



 スーパーを出た僕たちは、近くにある喫茶店に入った。

 喫茶店は客が疎らにしか存在しておらず、あまり流行っているようには思えなかった。そのうちに僕らに気付いたウエイトレスのお姉さんが奥からでてきて、男を見たとたんに目を見開いて頬を薄紅色に染めた。それから我にかえったかのように、彼女は「何名様ですか」と分かりきったことを質問する。男が「二人だ」と答えると、ウエイトレスはあたふたとしながら席を案内した。知り合いなのかと思って男に聞くと、「知らん」と言う素っ気ない返事が返ってきた。どうやら、ウエイトレスの人はこの眼前の男がカッコいいとでも思ったようだ。まあ確かに端正な容姿をしていて身なりも黒っぽい高級そうなブランド物のスーツを着ているのだから、女の人に注目されるのも仕方ないのだろう。本人はというと他人の反応に慣れているのか、はたまた鈍感で気付いていないのか知らないが、何事も無かったかのようにメニューに目を通していた。僕も、もう一部あったメニューを眺める。

「俺は決まったが、お前はどうだ。何でもいいから、とっとと頼め」

「僕、ウーロン茶」

「ませたガキめ」

 ボソリと男が呟いた。僕にはその言葉がガキならガキらしくジュースでも頼めと言ったように聞こえる。

 男が呼び出しボタンとかかれたボタンを押すと、先程とは違うウエイトレスが来て、「ご注文は?」と聞いてくる。男が「アイスコーヒーとウーロン茶」と素っ気なく答えた。ウエイトレスが復唱する。

「アイスコーヒーとウーロン茶をお一つですね」

「以上だ」

 男が、ウエイトレスが言うよりも早く言った。ウエイトレスが「かしこまりました」といって下がる。



「本題に入る」

 男が、出てきたばかりのアイスコーヒーをストローで飲みながらこちらを睨む。

「お前は狙われている」

 僕がまず疑問に思ったのは男の正体だったのだけれども、次の瞬間僕の口から出ていたのは全く別の質問だった。

「誰に?」

「お前の父親が勤めている会社と敵対している会社の上部からだ。兎に角、お前が家にいると危ないと言った所だろうな」

「母さんは?」

 父さんの会社の敵対組織だとしたら、母さんだって危ないんじゃないのかという僕の予想だったが、男は呆れたようにかぶりを振った。どうやら母さんは目標にはならないらしい。

「狙われているのは、お前だ」

「おじさんは、誰? 信用してもいいの?」

 取り敢えず思った率直な疑問を男に問いかけてみる。誘拐犯だとしたらかなり危ないと思ったからだ。しかし、男は『信用してもいいの』と言う疑問に目つきを一層鋭くして不快感を露にし、更にその目で僕を睨んだあと声のトーンを低くして言った。

「俺は鷹木鋭彦、お前の父親に頼まれてお前の護衛をすることになった。信用できないなら電話でお前の父親に聞いてみるといい。俺は好きでガキのお守りはしない主義だ」

「じゃあ、さっきスーパーで不気味に笑ったのはなんで?」

 鷹木、と名乗った男は僕の質問に対して、まさにその名の通り鋭い鷹のような眼光をこちらに向けた。

「笑いかけたつもりだった。笑うのには慣れていない結果、不自然な笑い方になるのだろう」

 済まないな、と無愛想に僕に謝る鷹木さんは嘘をついているようには見えない。結局、暫く考えてみた僕は鷹木さんを信用することにした。その事を鷹木さんに告げると鷹木さんは安堵の溜息らしきものをついた。

「鷹木さんは、父さんの会社の人なの?」

 僕は氷が少し溶けかかってグラスに水滴の浮いているウーロン茶のグラスを持ってストローで飲む。鷹木さんは答える。

「まあそうだな。お前の父親は俺の上司みたいなものだ」

「じゃあ、鷹木さんは父さんの命令で動いてるんだ」

「そういうことになる」

 だから面倒臭いこういう仕事も引き受けなければいけない、と彼は愚痴をこぼした。確かに彼の態度を見ていると子供好きには到底思えない。少し気の毒に思った。

「それじゃあ、」僕がまた質問をしようとしたところで、鷹木さんは僕の質問を静止した。

 カランカラン、とベルが鳴って男の姿が現れる。

 見たことの無い人相だった。角刈りで頬に物騒な傷跡があり、いかにも暴走族や不良と言った類の人だった。僕はその男に顔を見られないように俯く。多分鷹木さんはあの男が危ないと思ったのだろう。僕は、その間に僕が今置かれている状況を整理することにした。

 僕の父さんは、確かシステムエンジニアと言う仕事をしていたはずだ。それに敵対組織があるのかどうか分からないが、どうやら僕がその敵対組織に狙われているらしい。何故僕なのかは分からないが、どうやら狙われているのは事実のようだ。そしてその標的である僕の護衛にあたるべく、派遣されて来たのが父さんの部下である鷹木さんということになる。狙われていると言っても同じ家族である母さんは狙われていないようだし、父さんも何も言っていなかったので実際のところどうなのか分からないのが本音だ。

「店を出る」

 鷹木さんは、半分ほど残っているのアイスコーヒーをそのままにして席を立った。僕は残り少ないウーロン茶を一気飲みしてその後に続く。

「飲まないの?」

 僕は鷹木さんに問いかけたが、彼は首を縦に振って飲まないと言う意思を表した。



「今日一日だけ逃げ切れればそれでいい」

 鷹木さんは店を出て足早に歩き出しながら僕に言った。僕はそれについていきながら、どうしてか分からず首を傾げる。

「そういう約束だ。今日一日だけじゃなかったら、俺は仕事を引き受けるのを暫く悩んだ」

「一日だけだから引き受けたんだね」

「そうだ」

 それ以上ガキと一緒にいられるものじゃない、と彼は嫌悪感をあらわにした。まあ僕はまだ鷹木さんの言っていた『ガキ』というものらしいので、鷹木さんの気持ちは全く分からないのだが。

「ふうん」

 僕は、その話を適当に流すことにした。確かに一日だけと言うのも気になるが、鷹木さんに話す気はない様だ。それに他にも気になる所はたくさんあった。なぜ、家族の中で僕だけが狙われているのか。なぜ、追いかけてくる組織が存在するのか。そもそもなぜ、狙われる必要があるのか。

 その時だ。鷹木さんの携帯電話が唐突に鳴った。鷹木さんは依然、歩みを止めようとしない。

「はい、鷹木です」

 黒い折りたたみ式の携帯電話を取り出して電話に出た鷹木さんの目が、相手の声を聴いた瞬間にスッと細くなる。

「変わりますよ、心配なんでしょう?」

 丁寧な口調と共に、鷹木さんはそこで立ち止まって僕に携帯電話を差し出した。「お前の父親からだ」

 僕は、携帯電話を受け取って、耳に当てる。「父さん?」

『悟、まだ捕まっていないか、よかった』

 電話から響いてくるのは間違いなく父さんの声だった。父さんが安堵して溜息をついた事が電話越しに分かる。

「父さん、何で僕が狙われてるの」

『まだ説明していなかったか? まあ詳しい事は鷹木君に聞くといいが、取り敢えずお前は捕まるな。全ての取引がお前にかかってしまうことになった事は只では済まないと思っているが、仕方のない事だったのだ。謝罪しよう、――すまん』

「父さん、よく分からないよ」

『いずれ解るだろう。最期に一つ、――リュックは絶対に離すなよ』

「え」

 と言う所で、電話は一方的に切られてしまった。呆然としながら黒い携帯電話を見つめる。それはないだろう、それは。

「切られたのか」

 鷹木さんが、電話を僕から自然な動作で取り上げる。僕は思わずそれを目で追っていた。

「うん、詳しい事は鷹木さんに聞けって」
「何か解ったか?」
「ううん、何か取り敢えず捕まるなって言ってた」

「他には?」
「取引がどうたらって言って巻き込んですまないって」
「後は何もないのか」

「後は、――そうだ。リュックは離すなって」
 鷹木さんは、暫く考えこむ様子を見せて後ろを振り返った。僕もつられて振り返る。だが、先程の喫茶店で見たような怪しい人物はいない。外見的に普通に見える人たちが、数人歩いているだけだった。鷹木さんが舌打ちをする。
「人がいると落ち着いて話も出来ん。移動するぞ」
 鷹木さんは踵を返して足早に歩き出す。僕もそれに続いて早足で歩く。
「そういえば、詳しい事は鷹木さんに聞けって言われたんだけどさ」
「そのうち話す」
 鷹木さんに問いかけてみたものの、返事は素っ気なかった。そういえばこの人はこういう人だったな、と思いだす。
 暫く鷹木さんについて歩いていく。鷹木さんの歩みは「一糸乱れぬ」と形容するのが相応しいほどに機械的だ。僕は半ば走りながら鷹木さんに続く。持久力はあるほうなので、息は切れなかった。

「この辺りでいいだろう」
 鷹木さんが立ち止まったのは、暑さにより人気のない街中の公園だった。時刻は昼の一時を過ぎたばかりで、僕はカレーを完全に作り損ねていた。この分だときっと母さんもお腹を空かせていることだろう。かえったら文句を言ってくるに違いない。
「まあ、座れ」
 鷹木さんがベンチに座り、その隣を指差している。無駄に偉そうな鷹木さんの態度にもかなり慣れてきた。
「うん」
「そもそも、今回の一件はお前の父親とその取引先との交渉の間にすれ違いが生じた事から始まった」
 鷹木さんが唐突に話し始めたので僕は一瞬戸惑ったが、ようやく理由が聞けるのだと思って彼の話に耳を傾けた。
「一昨日にその交渉があった。そこで、新しく取引先と共同開発するソフトウェアについての話し合いが行われた。最初は上手くいっていたんだが、途中から些細なことで意見が食い違うようになった。まとまらないなら仕方が無いということで、向こうがある取引を持ちかけてきた。こちらはしぶしぶその取引を受けた。なぜ受けたのかは、聞くまでもないだろう。会社としてその事業に賭けた資金は莫大だからな。その結果がこれだ。『リュックを離すな』と父親が言っていたそうだが、今お前のリュックに入っているものが俺たちの会社の運命を握っているのは悔しいが確かだ」
 僕はハッと息を呑む。責任重大じゃないか。鷹木さんも一息ついて、目の前の鳩から僕に視線を移した。
「リュックの中に入っているデータが重要なんだ。今日1日、夕方四時までこちらが逃げ切れれば、交渉は成立してこちらの条件を向こうが飲む。もし俺たちが捕まったら、向こうの条件をこちらが飲まなくてはいけなくなる。向こうの条件は滅茶苦茶でまるで計画性のないものだ。そんな計画で、この一大プロジェクトを台無しにする訳にはいかない。だから、――お前の協力が必要だ」
 こちらを睨んで「解ったな」と、断定口調で言う鷹木さんに僕は頷いた。
 捕まったら僕の家も昼食のカレーがどうだったなどと言っていられなくなる。一日三食食べられるかどうかも確かではなくなるかもしれない。会社の人たちが路頭に迷うなんて、と思うと僕はいてもたってもいられなくなった。――こうなったら絶対に捕まらないぞ! と、僕は固く決意する。
「そうか」
 鷹木さんは、目を伏せた。
「逃げるぞ」
 次の瞬間、ふわりと僕を浮遊感がおそう。鷹木さんが、僕を片腕で米俵のように抱えて走り出したのだ。僕の顔は鷹木さんの進行方向とは逆の方向を向いているので、先程まで座っていたベンチが哀しい運命を辿ることになっていく様を自然と見る事ができた。なんと、僕たちの座っていたベンチの上から黒子のような人が降って来て次々とベンチに着地し、その重さでベンチを悉く大破していたのだ。公共のものを壊すなんて良くないと僕は顔を顰めた。鷹木さんはその間にも着々と公園から距離を離していく。黒子が追ってくるが、鷹木さんには追いつけないようだった。鷹木さんは足が速いらしい。元陸上部だったのだろうか、と僕は想像してみる。
 彼らから距離がずいぶん離れた。黒い豆粒のように見える。いや、米粒のように見える。『黒い米』と言うとどうも健康に良さそうに聞こえた。「黒米ですよー」と、頭の中で叫ぶ。


 時刻は午後三時を示していた。後一時間だった。鷹木さんは自販機の前で息を切らし汗を拭いながらペットボトルに入っている緑茶を飲んでいる。側の青いベンチに腰をかけている僕は追っ手が来ないかどうか不安だったが、どうやら鷹木さんは追っ手を巻いたらしい。一向に彼らが負ってくる気配は無かった。多分、また新たなる刺客を送り込もうとしているのだろう。
「安全策だ、移動するぞ」
「うん」
 鷹木さんは五百ミリリットルのペットボトルをゴミ箱に捨てると、高台へと向かった。僕の住んでいた住宅地に比べるとここはかなり自然の森のように思える場所だった。高台に向かう為に鷹木さんの後に続く。日も、だんだんと西に傾きつつある。あと少しだ。あと少しの辛抱だ、と自分を慰める。
 緩やかだが少し長い石段を登る。確かこの上には公園があった。今日のうちに既に五つの公園を徘徊していた。子供の僕にしてはかなりの重労働だ。持久力があるにしても、十二歳の持久力なんて知れている。確かに十二歳の平均持久力以上はあるものの、運動部でもない僕には過酷な労働だった。
 足が悲鳴をあげている。あと少しで石段も終わりだった。あと少しで規模の大きな鬼ごっこも終わりだった。あと少し、あと少し。汗で再びシャツがベタベタになるのを感じた。頬を伝う汗も気持ち悪くてシャツの袖で拭う。励まし程度に自分にエールを送ってみた。――がんばれ、僕。
 あと四段、三段、二段、一段、とカウントダウンしてみる。もう精魂尽き果てようとしていた。
「疲れたー!」
 階段を登りきって、第一声はそれだった。息が切れて途切れ途切れになりつつあるものの、それが今の正直な気持ちだった。鷹木さんの存在を探してみると、彼は町が一望できる展望ゾーンで薄い赤に染まってきた空と街を眺めていた。僕も隣に並んで街を見ようと、近寄る。

「遅いな」
 鷹木さんは軽口を叩く。
「鷹木さんが早いんだよ」
 僕は苦笑した。街は綺麗な紅に染まりつつある。
「もうすぐ、四時になる」
「終わりだね」
「ああ、後二十秒だ」
「あっという間だったね」
「もう二度とやらんぞ」
「僕は楽しかったよ」
 僕がそう言うと、「それはお前が何も考えてないからだ」と鷹木さんに返された。僕は笑う。鷹木さんは溜息をついた。
 タイミングを見計らったかのように、鷹木さんの携帯電話がジリジリと黒電話の音を立てて鳴る。鷹木さんが、電話をポケットから出して、通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、鷹木です」
 父さんからだろうか。鷹木さんが物欲しそうに見ている僕を見て頷いた。父さんからのようだった。
「交渉成立ですか、解りました。――息子さんに代わりますか?」
 鷹木さんが、無言で携帯を差し出してくる。僕は携帯を耳に当てた。
「父さん?」
『悟、よくやった。よく頑張ったな、これでこちらの条件で交渉成立だ。会社も安泰だ』
「これでよかったの?」
『ああ。お前のおかげだ、感謝する。それから、――本当に巻き込んで悪かったと思っている』
「いいよ、楽しかった」
『そうか、鷹木君とうまくやったのか。偉いぞ、これからも彼と仲良くしておきなさい』
「うん」
『そうか。――悟、晩御飯はカレーでいいのか』
「そうだよ」
『鷹木君にも食べていけといっておきなさい、じゃあな』
「うん、わかった」
 そして僕は携帯を鷹木さんに返す。
「鷹木さん、晩御飯家で食べてけって父さんが」
「解った」
 鷹木さんはこちらを向いて僅かに笑って頷いた。


「ねえ、鷹木さん」
「なんだ」

「綺麗な夕日だね」  鷹木さんは、一拍置いて「ああ」と僕に同意した。
 暮れ泥んでいく街。暮れ泥んでいく世界。
 沈んでいく夕日を眺めながら、僕は変な一日だったなと苦笑した。







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高校2年の時に、文芸コンクールに出して落選した作品。まあ落ちるだろこんなんじゃ。

寝ながら書いてたようなもんだし、ストーリーがひどいです^p^