彼女の悲しそうな笑顔を、どうしたら嬉しそうな笑顔に変えられるのか。僕は、一日中考えてみたけれど、結局良い案は思いつかなかった。はぁ、と一つため息をついてはみたが、それでも気分は沈んでいく一方で、一向に解決策が見つからない。 ここまでして、なぜ僕が彼女の笑顔を変えたいのか、その原因は全て僕にあった。 あれは、忘れもしない一昨年の秋の事。学校の紅葉が赤や黄色に色づいていて、とても綺麗だったことはハッキリと覚えている。その頃の僕はまだ中学一年生で、部活一筋で頑張っていた頃だった。 秋の大会も近づいてきて、練習時間は長くなることが当たり前。そして、朝練や自主練までをも当たり前にしておかないとレギュラーである一軍には到底入れないものだった。 どっちにしろ、一年で試合に出ることができるのは、せいぜい一人か二人なのだが。 そんな日が続くある日の事、僕は朝練に遅刻しそうになった。昨日の夜中までやっていた新作のゲームが仇になったのだ。 ―――ああ、やんなきゃ良かったな。あのゲーム。 行きがけにトースト一枚を口にくわえながら走ってきたが、それだけではすぐに腹が減ってしまうだろう。ここまで来る途中に食べ終わったパンの味を喉の奥にかみ締めながら、ため息をついた。 ―――今日は、授業まで持たないな。…寝ようか。 そんな事を思いながら走っていると、急に誰かにぶつかった。 「あ、ごめんなさい」 とっさに謝罪の言葉を口走ってしまう。ぶつかられた人のほうは、「こちらこそ、済まない」と言って、僕とは反対方向に駆けていった。あまりにも突然の事で、顔も見えなかった上に性別もわからなかったのだが、僕はあの人に一度会った事があるような気がして、その人が立ち去っていくのをずっと目で追っていた。が、 「やっべ、朝練!」 朝練の事をすっかりと忘れていた自分に気づき、慌てて学校に向かって走り出した。 「ギリギリセーフ?」 「一秒遅刻だ。残念だったな」 ユニフォームに着替え終わり、練習に加わる為に集合場所――グラウンドの真ん中だ――へと急いで、一年の整列場所に並んだが、友人に『遅刻』とみなされた。 「なんだよ、せっかく急いで来たのに」 と、僕が友人を睨みつけてやると、 「冗談だよ。全く、憎たらしいほどに時間ピッタリだ」 友人はふてくされた様に言い放った。 「はぁ、良かった」 僕が安堵の息をつく。と、友人のほうは「冗談通じねぇ奴だな」と言って僕の頭を小突いてきた。 「…よーし、後一周だ!」 校舎周り十周も残り後一周を迎え、ラストスパートを掛ける。 「テメーには負けねぇよ!」 ペースをあわせて走っていたらしい友人も、同じくラストスパートを掛けた。 互いにライバル視しているせいだろうか、抜かれては抜き返すことの繰り返し。そして、いつの間にか土煙の舞い上がるようなデットヒート状態に。 校門をくぐった頃にはもうお互いにへとへとで、肩で息をするのがやっとの状態だった。 「朝練終了! 解散!」 それから十分後、監督から解散の声がかかる。 「あー、やっと終ったー!」 「疲れたな」 「授業まで、体もたねーよ」 「やべー、足が棒みてーだ」 と、同時に口々に部員達の声が上がる。更衣室でユニフォームから制服に着替えた僕らは教室に戻った。 案の定、練習でへとへとだった僕達は1時間目から爆睡。先生に小突かれ、先生が立ち去ればまた夢の世界へ行く事の繰り返しだった。 それと同じように、2時間目、3時間目が過ぎる。 だからその時の僕はまだ、教室の中に居たあの人の存在に気づいていなかった。 …いや、僕はもうとっくに気づいていた。でも、、気、に、、、留めて、、、、、いなかったんだ。 それから数日後の日曜日。 「……斉藤、か?」 自主練で走り込みをしている途中に、ふと、後ろから苗字を呼ばれて振り返る。 「…あ。…相沢さん?」 この人は同じクラスの変わった人。その名も相沢彰。名前からしても口調からしても男のようだが、実はれっきとした女だ。 外見はというと、まるで日本人形。とでも言うところだろうか。漆黒の長い髪に、少し目つきの悪い目。しかし、実際のところ怖い人でもなく、話してみればその考えはむしろ逆であることがわかった。 そして、彼女が一番変わっている場所。それは、ズバリ性格である。一般的に、女子といえば何人かの集団を作り、放課中にもその集団で集まって話をすることが多い。そして、無意味な恋愛話やら何やらをごたごたと話し、その関係もドロドロ…というと感じが悪いが、何か男である僕には解らない不思議な関係というか、世界を持っている。 しかし、彼女―――相沢彰は違った。 嫌われている訳でもないのだが、休み時間には僕にはよく解らない外国の原文で書かれた本を読んでいたり、僕には――恐らく他の奴らのそう思っているだろう――ちんぷんかんぷんな、難しい論文を読んでいたりしている。 もちろん、他の女子とも適当に会話をしたりしているが、その集団の中に入ることは決して無く、上辺だけという付き合い方をしているのが、僕たち男子にも手に取るようにわかった。 「こんな時間に何をしている?」 僕がしばらくの間その場に止まっていると、相沢さんは僕に追いついてきた。並んだところで一緒に歩き出す。 秋だというのにまだ少し暑く、日の光も高い所から僕らを照り付けていた。 「自主練だよ。相沢さんは?」 「病院に。……祖父の、見舞いだ」 「おじいさん、何処が悪いの?」 ―――言った瞬間に、まずいと思った。 なぜか、って? そんなの決まっている。相沢さんの眉毛がピクリと動いたからだ。しばらく僕らの間に沈黙が流れた。 「―――心臓だ」 相沢さんは、静かに、重い口調で言った。 「そ…うなんだ」 僕は胸の奥に、ズドンと衝撃を感じた。それだけショックを受けたんだ。やはり、相沢さんが言ったからだろうか。別に彼女が悪い訳ではないのだが、彼女には……そう、発言力がある。人を―――…いや、人の心を突き動かす、何かが、彼女の言葉には含まれているんだと僕は思っている。僕の説明力じゃ説明しきれないし凄く分かり辛いと思うけど、それを分かりやすく例えるとすれば、大統領の候補の人とか、そう言った偉い人の演説を聴いているような感じ。 要するに、…知的な人の分かりやすい説明みたいな。そんな感じだ。 「えーと、…おじいさん、治るの?」 そして、また僕の口は聞かなくてもいいものを、聞いていた。だけど僕は、ただ後悔するばかりで何も出来なかった。言わなけりゃ良かった。そんな言葉が頭の中で繰り返される。また僕らの間に重たい沈黙が流れた。 そして沈黙を破ったのは、また相沢さんのほう。 「いや、まだ……解らない」 そう言って、ふぅ、と相沢さんはため息をついた。僕に呆れているのか、それともそれは僕の被害妄想なのか分からない。 だけど、さっきまでの罪滅ぼしに一言。 「治るといいね、おじいさん」 「あぁ、そうだな」 そのとき僕は初めて相沢さんが笑ったところを見た。いつもの作り笑いなんかじゃなくて、本物の自然な笑顔を…――― それからまた2週間が過ぎた。その間に部活のレギュラーも発表された。僕も、友人もレギュラーだった。一年は僕ら二人だけ。正直驚いたけど、やはり嬉しくないといえば嘘になる。この時ばかりは、友人と肩を抱き合って喜んだ。 そういえば、数日前から相沢さんが学校を休み続けている。今まで一度もこの学校を休んだ事の無かった彼女が、である。 僕は嫌な予感がした。この間の、おじいさんの話がよみがえってくる。 『―――心臓だ』 僕はその予感を振り払う。そして、別の事を考えようとした。…無理だった。相沢さんのおじいさんの事が気がかりでならない。勿論、それ以上に相沢さんの事も気がかりでならなかった。 で、結局。僕は学校が終った後、病院に行く事にした。近くにあるK病院である。 正直、病室も聞いていない上に、おじいさんの病状が悪化したと決まった訳でもない。 全てが僕の自己判断だ。間違っているかもしれない。―――いや、間違いであって欲しい。 そう思いながら、手に持った花束(これはここに来る途中に買った)を握り締めながら、病院の受付に向かう。 「相沢さんの病室を教えて欲しいんですが」 僕が言う。唐突過ぎただろうか、少し不安になった。だが、顔には出さない。いや、出したら終わりだ。即座に病院からつまみ出されてしまうかもしれない。そんな恐ろしい考えが頭を過ぎっては消えていく。いけない事をする時のように、不安の波が押し寄せる。別にいけない事では無いはずなのに…。 …むしろ、これは良い事のはずなのだ。そうだ、そうに違いない。そう、自分に言い聞かせた。 「あぁ、相沢さんね。あの人は、えーと701号室だったかしら」 答えてくれた看護士さんは親切そうな人だった。人当たりがよさそうで、すこしふくよかな30代そこそこの女性。濃い茶色のショートヘアの上に、看護士さん独特のあの帽子を被っている。 彼女は、「まだ最近入ったばかりだからね、あの子。私も少しうろ覚えで…ごめんなさいね」と、にこやかに笑って言う。 僕はそれに、「いいえ、大丈夫です」と返した。 「あのエレベーターで七階まで上がって。降りたら目の前よ」 「ありがとうございます」 僕は看護師さんに一礼すると、踵を返してエレベーターのほうへと向かった。エレベーターの▲ボタンを押して、僕はエレベーターが来るのを待つ。以外とそれは早く来た。僕は乗り込み、『7』と書いてあるボタンを押す。 ドアが閉まって、沈黙が流れる。 僕の頭には何かが引っかかっていた。何かが分からないところが余計に気持ち悪い。何だったのか考えているうちにエレベーターは止まり、ドアが開いた。 と、目の前に人影があるのに気づいた。女の人だ。 「斉藤…どうして此処に…」 苗字を呼ばれて顔をよく見れば相沢さん。目を見開いて驚いている。 「…あ、相沢さん…あ、えーと、おめでと、じゃなくて、お、おおお見舞いに」 その迫力に押し負けて舌がうまく回らない。どもりすぎだ、自分でもそう思ったけど回らないものは仕方ない。 「帰れ! 今すぐに、だ!!」 相沢さんが叫ぶ。凄い迫力だ。だけど、ここで引き返すわけにはいかない。僕は拳を握り締めた。 「…嫌、だよ」 「帰れといったら帰れ。直ちに帰れ!」 「絶対に嫌だ」 こうなったら何としても居座ってやる。そんな気持ちになった。だが、ふと彼女の服装を見れば、パジャマ。 「帰れ、斉藤。聞こえているんだろう!」 「……」 「とうとう耳がおかしくなったのか、帰れ!」 「……おじいさんじゃ、無かったのか」 気づいてしまった。気づいてはいけないだろう事に。…そうだったのか、それなら辻褄が合う。 散らばっていた沢山の糸が、一本に繋がった。一本の、長い長い糸に。 「…何を…言っている」 どうやら、図星らしい。とうとう僕はカチンと来た。 「最初から、嘘だったんだな!」 「…ッ違う!」 「違わない!」 病院の廊下で叫び合う。 しかし、何事かと飛び出してくる人影もなければ、「お静かに!」と慌てて駆けつける看護士もいなかった。 「……」 相沢さんは無言だ。僕は続ける。 「……病気なのはおじいさんじゃなかった! 君自身だった!!」 「……違う。私の祖父は病気だった!」 「……!?」 「私は、私の祖父と同じ病気だ。…生まれつき心臓に問題がある、心臓病の類らしい」 「…治るの、その病気」 少し冷静さを取り戻した僕は言う。相沢さんは静かに首を振った。 「余命が後五年と言われた」 「ご…五年!? どうしてそれを早く言わなかったんだよ!」 静まったと思われていた苛立ちが込み上げて来る。腹立たしかった。彼女にも、そして何も知らない無知な自分にさえも。 僕は無性に腹が立って仕方なかった。自分の中に込み上げて来る怒りを抑えきれない。自分の感情はいつも簡単に押さえ込めてきた。なのに、今日はそれが出来ない。そんな自分の脆さにも腹が立った。もう何もかもに腹が立つ。 「…悪い」 でも斉藤さんの、その力の無い声と、その悲しそうな表情を見比べているとその怒りも一瞬にして消えた。 残ったのは、後悔の気持ち。ただそれだけ。消化不良になったように、胸が苦しくなった。 「…ごめん」僕は俯いて言った。「これ、部屋にでも飾っておいて」 先程からずっと手にあった、花束を差し出す。斉藤さんは、「ありがとう」といって受け取ってくれた。悲しそうな先程の表情で、ふわりと笑った。悲しそうな笑顔だった。僕は胸にこみ上げてくるものを抑えながら、無理矢理笑った。 斉藤さんは、僕の顔を見て俯いた。 それ以来、彼女は悲しそうな笑顔しか浮かべなくなってしまった。 僕は、もう、どうしたらいいのか分からない。 せめて、あの時に戻れれば。あの時に、ああしていれば。 そんな事を思うのだが勿論過去に戻れるはずも無く、僕は時間の浪費を続けていく。 -------------------------------------------------------------------------- バットエンド過ぎて泣けてくるわ! |